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「浦上天主堂」 のテレビ露出情報

1945年8月9日午前11時2分、浦上天主堂から500m先で原子爆弾が炸裂した。犠牲者は同年だけで約7万4000人にのぼった。山里小学校の児童は約1500人いて、自宅は爆心地から2km圏内にあった。約9割が亡くなった。生き延びた児童のなかで、選ばれた37人は世界で初となる子どもの被爆体験記「原子雲の下に生きて」を上梓した。山崎千鶴代さんは4歳の時に被爆し、両親を失い孤児となった。親戚に引き取られたが、充分な食事を与えられず、栄養失調に。中学卒業後、職を転々とした。半世紀近くを福祉施設「恵の丘長崎原爆ホーム」で暮らしている。今回、番組のインタビューに応じ、山崎さんは中学時代、レイプされ、心を閉ざしてしまったことを打ち明けた。
9歳のときに被爆した野口貞子さんが取材に応じた。夫は既に亡く、4人の子どもは独立している。原爆投下により、一家8人のうち助かったのは野口さん、姉だけだった。親戚に引き取られた後、朝から晩まで農作業を続けたなか、叔母のツヨさんは親代わりになってくれた。また、両親と通った教会にも足を運び、平和への祈りを捧げてきた。番組の調査の結果、被爆体験記を綴った37人のうち、17人は既にこの世を去っている。日本被団協の横山照子代表理事はそのなかの1人、石原秋光さんと交流があった。10歳の時に被爆し、44歳の時にNHKが取材した際、妻、2人の子どもと生活していた。火傷痕が理由でたびたび差別に遭い、職を転々としたという。横浜代表理事は酒を痛飲する石原さんを気遣い、病院に付き添ったりした。石原さんの妻がこぼす愚痴にも付き合ったという。妻は59歳の時に亡くなった。横浜代表理事に促され、石原さんは学生たちに被爆体験を語ったことがあった。「次やってよ」と言うと、取りつく島もなかったという。次第に疎遠になり、石原さんは76歳で死去。
10歳の時に被爆した下平作江さんは1万回以上に渡り、被爆体験の語り部をしてきた。妹は原爆の惨禍で後遺症に苛まれ、蛆がわいていじめを受けていた。18歳の時に命を絶った。下平さんは「どんなに辛くても、苦しくても生きてください」と伝えてきた。3年前から下平さんは介護が必要になり、認知機能の低下で語り部は引退。取材の終盤、下平さんは今も戦争が続いていることへの怒りをのぞかせた。37人の子どもたちは語り尽くせぬ痛みを背負いながら、それぞれの人生を懸命に歩んできた。
住所: 長崎県長崎市本尾町1-79
URL: http://www1.odn.ne.jp/uracathe/

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年8月14日放送 22:00 - 23:56 TBS
戦後80年特別番組 なぜ君は戦争に?(原爆開発に関わった医師)
今年5月、長崎に届いたのは教会の鐘。東洋一の大聖堂から被爆地長崎の象徴となった浦上天主堂。ここには鐘が2つあったが、1つは原爆で大破。ノーランJr.教授はこれを復元し寄贈した。2025年8月9日、鐘が鳴った。

2025年8月11日放送 5:50 - 9:00 日本テレビ
ZIP!NEWS
原爆投下から80回目の8月9日を迎えた被爆地・長崎。浦上天主堂では早朝から被爆者や市民が追悼の祈りを捧げた。今年の平和祈念式典には94の国と地域の代表など約4000人が参列。長崎市の鈴木市長は平和宣言で「対立と分断の悪循環で各地で紛争が激化している」と指摘した上で「長崎を最後の被爆地とするためには核兵器廃絶を実現する具体的な道筋を示すことが不可欠」と訴えた。[…続きを読む]

2025年8月10日放送 4:00 - 4:40 TBS
TBS NEWS(ニュース)
9日、原爆投下から80年、長崎は祈りの朝を迎えた。長崎原爆の犠牲者は1945年末までに約7万4000人に上り、被爆者の平均年齢は86歳をこえた。平和祈念式典にはG7各国やロシアなど紛争当事国の大使らが参列した。鈴木史朗長崎市長は核兵器廃絶の実現に向けた具体的道筋を示すよう訴えた。

2025年8月9日放送 23:55 - 0:55 日本テレビ
Going! Sports&NewsGoing!NEWS
原爆投下から80回目の8月9日を迎えた被爆地・長崎。長崎市の浦上天主堂では、早朝から被爆者や市民が追悼の祈りを捧げた。長崎市・平和公園で行われた平和祈念式典には、ロシア、ベラルーシ、イスラエルを含む94の国・地域の代表など約4000人が参列。鈴木長崎市長は、平和宣言で「対立と分断の悪循環で各地で紛争が激化」していると指摘した上で世界の指導者に「長崎を最後の被[…続きを読む]

2025年8月9日放送 22:55 - 23:40 NHK総合
NHKスペシャル(NHKスペシャル)
1945年8月9日午前11時2分、浦上天主堂から500m先で原子爆弾が炸裂した。犠牲者は同年だけで約7万4000人にのぼった。山里小学校の児童は約1500人いて、自宅は爆心地から2km圏内にあった。約9割が亡くなった。生き延びた児童のなかで、選ばれた37人は世界で初となる子どもの被爆体験記「原子雲の下に生きて」を上梓した。山崎千鶴代さんは4歳の時に被爆し、両[…続きを読む]

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