次は、天下人豊臣秀吉の後継者・秀頼がライバル徳川家に抱く対抗心も読み取れる書状。学芸員・中村亮佑さんは、「直江兼続に出した黒印状になる。豊臣秀頼は初めて手紙を出した時から黒印・黒い判子を使っていた。朱印よりも黒印の方が礼が薄いと考えられる」とコメントした。家康も同じく関ヶ原の戦いの後天下人になった頃から朱印状より礼の薄い黒印状を多用するようになったと言われている。
次は、豊臣家と徳川家の最後の戦いを描いた絵。学芸員・中村亮佑さんは、「豊臣家が滅亡する戦いとなった大坂夏の陣を描いたもの」などとコメントした。この前の年に起きた冬の陣での講和の結果、大坂城の堀は埋められ二の丸まで破壊、本城のみとなってしまった。学芸員・中村亮佑さんは、「徳川家康は豊臣家を滅ぼすつもりはなかったと言われています」とコメントした。
次は、豊臣家と徳川家の最後の戦いを描いた絵。学芸員・中村亮佑さんは、「豊臣家が滅亡する戦いとなった大坂夏の陣を描いたもの」などとコメントした。この前の年に起きた冬の陣での講和の結果、大坂城の堀は埋められ二の丸まで破壊、本城のみとなってしまった。学芸員・中村亮佑さんは、「徳川家康は豊臣家を滅ぼすつもりはなかったと言われています」とコメントした。
