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オープニング映像。
片桐且元について語る。片桐且元は1556年、現在の長浜市で誕生し父の代から浅井長政に仕えていたとみられる。18歳の頃には長浜を支配した秀吉に見出され家臣として仕え始める。信長の後継者を巡る賤ケ岳の戦いで後に「賤ケ岳の七本槍」と称されるような活躍を見せる。且元は秀吉亡き後も豊臣家の存続に尽力する。しかし、最後は豊臣家の居城である大阪城を追われ、大坂の陣では徳川軍に加わった。
秀吉が天下人とに歩みを進めるきっかけとなったのが賤ケ岳の戦い。且元は後に「賤ケ岳の七本槍」と称れるような活躍を見せ、秀吉軍の勝利に貢献した。武将としてはほかのチームに行ったらエースで4番だけどメジャーリーグ行ったら普通の選手みたいと浮世は言った。今で言ったら有能な官僚だという。官僚として認められた且元が担当したのが「太閤検地」。測量の基準を統一し、安定した年貢の徴収を可能にした要となる政策だ。「1595年当時 片桐且元の石高は?」とクイズが出た。正解は「1万石」。秀吉は政権の中で権力を与えるやつには領地を大きく与えなかった。
1598年、秀吉が病死。且元は遺言により、かつての主君・浅井長政の娘と秀吉の間にできた秀頼の教育係に任命された。1600年には関ヶ原の戦いが起こる。且元は当初、石田三成側にいたが最後は徳川家康側についたとみられている。関ヶ原の戦いは豊臣政権の中の誰が実験を握るかの争いだったんじゃないかと考えられるので、且元は一貫して豊臣家の御ためだったと浮世は言った。且元は平群2万4000石の大名として迎えられる。
斑鳩には且元の居城である龍田城があった形跡が今も残されている。追手門は城の正面にある問。追手という地名が残る場所は龍田城の正面だったと考えられる。平太池は御城の内堀じゃなかったのかなと考えられている。城の西側には川があり、水運としても利用できた。さらに、龍田は街道沿いにあたため市場や宿場町としても発達していた。且元が法隆寺の僧侶に宛てて書いた手紙からは僧侶と親密な関係であったことがうかがえる。且元は奈良の寺社の権利関係を調節した。
亡き秀吉の息子・秀頼は莫大な資金を投じて奈良周辺の寺社を復興した。且元は多くの事業の責任者に任命された。家康の力が拡大する中、豊臣家の存在をアピールする狙いもあった。
「豊臣家滅亡のきっかけをつくったのは?」とクイズが出た。正解は「お寺の鐘」。1614年、鐘に刻まれた文字が原因で豊臣家と奥川家の対立が深まる事件が起こった。「国家安康」が家康という字を切り開いていて、「君臣豊楽」が豊臣を君として楽しむと読めるという話になった。事業の責任者だった且元は弁明しようと家康のもとに向かうがうまくいかなかった。徳川家との和解のための3つの提案を秀頼たちに示した。淀殿や豊臣側の側近たちは且元が示した提案を拒否。且元は豊臣家を裏切ったとして大阪城を負われた。1615年、大坂夏の陣で淀殿・秀頼が自害し豊臣家が滅亡。家康も何度もチャンスを与えていたが豊臣方がずっと拒否していたのだはないかという。豊臣家滅亡から20日後、且元も京都で病死。
