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「滝谷源助」 のテレビ露出情報

「ハワイのお土産といえばマカダミアナッツチョコレートなのはなぜ?」という問題。正解は「それがマモルの夢だったから」。19世紀後半、ハワイ王国の経済の半分を支えていたのは砂糖産業。しかし、サトウキビ農園の労働力は不足していた。ハワイ王国は移民として海外からの労働者を募った。これに応じた日本人の1人が山口県で農家を営んでいた滝谷源助。ハワイの夏は常に貿易風が吹くため、サトウキビの収穫・加工のほかに防風林の手入れもしないといけなかったという。人手はいくらあっても足りなかったので日本の移民は大活躍。1889年、滝谷勘一が誕生。商売の才能があったため、ソーダ飲料やアイスクリームなどをハワイで販売し、成功を収めた。1912年、滝谷守が誕生。守は生後すぐに山口県の親戚の家に預けられ、成人するまで日本で過ごした。20歳になった守は突然、父・勘一からハワイに呼び戻される。勘一はハワイで6社を経営。守はそのうちの1社、ソーダ飲料を製造する会社を手伝うことに。24歳になった守はハワイで出会った日系人の愛子と結婚。その後、守は自分も起業したいと思い、妻に背中を押されて起業家としての一歩を踏み出した。しかし、1941年に真珠湾攻撃が開始。守が勤めていたソーダ飲料の会社はアメリカの管理下に。終戦後、勘一は会社経営を引退。守は起業する夢よりも生活の安定を優先した。守が38歳の頃、会社の経営は回復。自らの手で起業する夢に向けて動き出した。そして、サトウキビ農園を囲む防風林として植えられていたマカダミアの木を見つけ、1本4ドルの苗を5000本購入。いよいよ収穫という時にハリケーンがハワイを襲い、マカダミアの木は全滅。それでも守は売れると信じて再出発を誓った。ハワイで人気のないマカダミアナッツをどうしたら広められるのか考えていると、めいのキャレンが守にチョコレートを食べさせた。そこでマカダミアナッツとチョコレートの相性が良いことに気づき、世界一のお菓子を作る夢が芽生えた。早速、マカダミアナッツチョコレートの開発に着手。試作品作りは全て手作業で行った。開発から10年、マカダミアナッツチョコレートが世界で初めて誕生した。守は自らの足で営業を行い、ハワイ在住の日系人たちにも試食してもらった。マカダミアナッツチョコレートは日本人を唸らせたが、ハワイでは全く売れなかった。現地の人にはマカダミアナッツを好んで食べるという習慣がなかった。しかし、日本ではハワイ観光ブームが起き始めていたため、日本へのお土産として売ることにした。手提げ箱を考案すると、ハワイらしいと評判になり、日本人観光客の間で人気に。観光ブームに乗ることでマカダミアナッツチョコレートはハワイ土産の定番となった。守の夢がかなった瞬間だった。1988年、守は75歳で亡くなった。マカダミアナッツチョコレートは形を変えず、今でも守のレシピで作られている。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年6月15日放送 9:00 - 9:45 NHK総合
チコちゃんに叱られる!(チコちゃんに叱られる!)
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