江戸中期、ある幕府の役人・神尾春央が農村を視察して「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と言ったと言われている。牧原教授は、江戸の始めまでは年貢が重かったデータが多いが次第に軽減してくると考えられている、百姓の利得がないと飢饉のときにつぶれる、取りつくされると勤労意欲が向上しないと解説した。初期は役人が現地で収穫高を調査し年貢の量を決める検見法が採られた。牧原教授は、検見法は役人を派遣するのにコストがかかる、過去数年間の年貢を平均し一定期間同額の年貢を納める定免法を多く採用するようになていくと解説した。定免法では米をたくさん作った人ほど豊かになるため、百姓の間に貧富の差が広がった。牧原教授は、領主が領主としての務めを果たしている限りは百姓も自分たちの務めを果たすという観念があった、村の連帯責任になっているのがポイントで村役人は責任を負わざるを得ない、格差は広がっているが全体としての生活水準や文化水準がゆるやかに向上したと解説した。