- 出演者
- 野島博之 牧原成征
オープニング映像。
オープニングの挨拶。ゲストは牧原成征教授。第2回は「幕府は『百姓・町人』とどう向き合ったのか?」。
江戸に入り民衆を支配する立場になった武士は名字帯刀を許され、城下町に屋敷を構えて生活した。百姓は村で暮らして第一次産業に従事。生産高の半分を年貢として納めることが義務付けられていた。江戸末期、人口の85%が百姓で、武士は7%だった。なぜ武士は百姓からスムーズに年貢がとれたのか。牧原教授は、兵農分離は領主である武士を城下町に集め村に残り年貢を納める百姓と区別分離していくもので為政者にとっては有効な方策、領地を維持し拡大するには常備軍のように城下町に集まっていたほうが都合がいい、百姓から年貢をたくさんとるには徹底した検地を行い耕作に専念させたほうがいい、庄屋を責任者とすることで村の自治に任せたことで耕作に専念する環境が整えられ生産性が次第に向上したと解説した。
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- 村請制度
江戸中期、ある幕府の役人・神尾春央が農村を視察して「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と言ったと言われている。牧原教授は、江戸の始めまでは年貢が重かったデータが多いが次第に軽減してくると考えられている、百姓の利得がないと飢饉のときにつぶれる、取りつくされると勤労意欲が向上しないと解説した。初期は役人が現地で収穫高を調査し年貢の量を決める検見法が採られた。牧原教授は、検見法は役人を派遣するのにコストがかかる、過去数年間の年貢を平均し一定期間同額の年貢を納める定免法を多く採用するようになていくと解説した。定免法では米をたくさん作った人ほど豊かになるため、百姓の間に貧富の差が広がった。牧原教授は、領主が領主としての務めを果たしている限りは百姓も自分たちの務めを果たすという観念があった、村の連帯責任になっているのがポイントで村役人は責任を負わざるを得ない、格差は広がっているが全体としての生活水準や文化水準がゆるやかに向上したと解説した。
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- 神尾春央
1590年に徳川家康が江戸に入り、諸大名や家臣たちの屋敷を作り住まわせた。武士たちの生活を支えるために全国から職人や商人たちを集めた。町人たちに年貢はなかった。武士たちは生産活動に従事しておらず、都市機能を充実させるため年貢に相当する負担がないことを魅力に商人や職人を呼び寄せ城下町を形成した。ただ無税ではなかった。牧原教授は、都市に住み屋敷を持つのが正規の町人とされ人足役を幕府や藩に納めた、城主に奉仕することが年貢の代わりで1軒あたり年間15日だった、自分の召し使いや裏店の住人を送り込んでいたと解説した。牧原教授は、年貢米をお金に換える役割を果たしていたのが町人で武士が受け取った米を換金する札差という業者が金融業として大きな力を持った、米だけだと不便なので貨幣の仕組みも同時に発達した、幕府は町人の力がどこまで行くかたぶん読めていなかった、日本橋や京橋のあたりの外側は元々村だったが江戸が拡大して外側まで町人が住み始めたと解説した。18世紀に江戸の人口は100万を超え、武家も町人も約50万人だった。
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- 徳川家康
なぜ武士たちはお金に困っていたのか。耕地面積の拡大で米の生産量はあがるが人口が爆発的に増えたわけではない。米価安が進みがちになる一方で経済発展で物価高が進んでいく。インフレは進むが武士の手取りが増える保証はなく、多くの武士が借金漬けになっていく。江戸後期の薩摩藩は商人から500万両を借金した。相対済し令は金銭の貸し借りに伴う訴訟に幕府は介入しないとして当事者同士で解決するよう命じた法令。武士のほうが身分が高いため商人は泣き寝入りをすることもあった。牧原教授は、対馬藩宗家の江戸藩邸の日記を見ると対馬藩は3年に1度江戸に来るが江戸の独自ルールをよく知らずに士が町人に騙されたとある、嫌なことがあると奉公人がすぐ辞めてしまった、ただ単に大名や武士が上にいて威張ってたわけではないと解説した。
エンディングの挨拶。
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2025年1月26日(0:40)