2025年1月26日放送 0:40 - 1:09 NHK総合

3か月でマスターする江戸時代
(1)「天下泰平」の世はなぜ生まれたのか?

出演者
野島博之 牧原成征 
(オープニング)
3か月でマスターする江戸時代

江戸時代のヒットメーカー蔦屋重三郎を描く大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」をより深く面白く見るため江戸の歴史を学び直す。

キーワード
蔦屋重三郎
オープニング

オープニング映像。

オープニングトーク

オープニングの挨拶。ゲストは牧原成征教授。第1回は「『天下泰平』の世はなぜ生まれたのか?」。

(「天下泰平」の世はなぜ生まれたのか?)
なぜ豊臣氏をすぐに滅ぼさなかったの?

なぜ豊臣氏をすぐに滅ぼさなかったのか。1598年に豊臣秀吉が死去。秀頼の将来を諸大名に託した。関ヶ原の戦いに勝利した家康は1603年に征夷大将軍に任命された。豊臣氏が滅亡したのは大阪冬の陣・夏の陣の後で、関ヶ原の戦いから15年も経っていた。牧原教授は、関ヶ原の戦い直後の時点では豊臣氏を滅ぼそうと考えていなかったという説が有力、家康は豊臣家の家来の一人にすぎず主人は秀頼で関ヶ原の戦いは豊臣政権内部での主導権争いだったと解説した。関ヶ原の戦い後、家康は敵方の大名の領地を没収し味方に与えた。牧原教授は、それで家康の地位が上がったのは確実だが本来は上に秀頼がいる、文書を出せない家康は口約束で領地を与えた、家康が完全に上位にあったわけではなく相対的な力関係で決めた、将軍になった段階で豊臣氏を滅ぼそうと思っていなかったと解説した。家康は1605年に息子の秀忠に征夷大将軍の地位を譲る。その後も家康は事実上の実権を握り続けた。1611年、二条城で久しぶりに上洛した家康と秀頼が面会。家康は秀頼は賢い人で人の命令を受ける様子はないと家臣に話したという。牧原教授は、このエピソードは後世の作り話、徳川が豊臣氏を滅ぼそうと覚悟したのは大坂の陣の前と解説した。

キーワード
亀山城址二条城大阪冬の陣・夏の陣徳川家康徳川秀忠明良洪範篠山城跡豊臣秀吉豊臣秀頼関ヶ原の戦い
江戸幕府と朝廷のフシギな関係

1615年に公家に向けて禁中並公家諸法度が発布。第一条には天子として身につけるべきは学問でありそれに励むべきとされた。なぜ幕府は急に「勉強しなさい」と言い出したのか。牧原教授は、伝統的な王としての姿を体現させ朝廷を立て直す主旨と解説した。法度を出す一方で朝廷を経済的に守り権威を高める政策をとった。牧原教授は、戦国時代に朝廷は非常に零落し財政難に陥っていた、秀吉の場合は圧倒的な経済力・軍事力・政治力を背景に天皇を抱き込む形で関白の地位についた、江戸幕府の場合は関白の地位を平安時代より継承していた藤原氏に戻した、天皇は幕府にとって好ましい君主としてあり続けることが期待されたと解説した。

キーワード
禁中並公家諸法度豊臣秀吉
小江戸が聞いた!歴史ウワサ話/本当はコワイ?武家諸法度

1615年に武家諸法度が発布。築城の禁止、城の修理には幕府の許可が必要、大名同士の勝手な結婚の禁止など厳しい内容が規定され、武家諸法度に違反すると領地が没収された。1619年、広島城主・福島正則は幕府に無断で城を修繕し、幕府は領地49万石を没収。家光の頃までに100以上の大名が改易の憂き目にあった。牧原教授は、改易の原因は後継ぎがいない、行いが悪い、武家諸法度違反で大名がきちんと統治していってほしいというのが基本の姿勢だった、代替わりで天下人が実力を示す必要があった、秀忠が代替わりで自分の権力を広く知らしめたと解説した。この時代は跡継ぎがいない大名が死に臨んで相続人を願い出ることを禁じた。牧原教授は、将軍に認知されていない跡継ぎは許されていないという時代に変わってきた、事前に嫡子であることを届け出て将軍にお目見えさせておくことが家を無事に相続する条件と解説した。

キーワード
徳川家光徳川秀忠末期養子武家諸法度福島正則
本当はコワイ?参勤交代

諸大名が国元と江戸を1年交代で往復する参勤交代は莫大な費用がかかった。大名を経済的に疲弊させるためと言われることもあるが、牧原教授は幕府が経済力をそごうという主旨で作られたのではないと解説した。参勤交代は大名を交代で出仕させ挨拶お礼に来させる制度で、格式に応じた行列を組むことが武士のある種のつとめだった。

キーワード
参勤交代拾万石御加増後初御入国御供立之図
(エンディング)
エンディング

エンディングの挨拶。

テキスト

3か月でマスターする江戸時代のテキストのお知らせ。

キーワード
3か月でマスターする江戸時代NHK出版

© 2009-2025 WireAction, Inc. All Rights Reserved.