なぜ豊臣氏をすぐに滅ぼさなかったのか。1598年に豊臣秀吉が死去。秀頼の将来を諸大名に託した。関ヶ原の戦いに勝利した家康は1603年に征夷大将軍に任命された。豊臣氏が滅亡したのは大阪冬の陣・夏の陣の後で、関ヶ原の戦いから15年も経っていた。牧原教授は、関ヶ原の戦い直後の時点では豊臣氏を滅ぼそうと考えていなかったという説が有力、家康は豊臣家の家来の一人にすぎず主人は秀頼で関ヶ原の戦いは豊臣政権内部での主導権争いだったと解説した。関ヶ原の戦い後、家康は敵方の大名の領地を没収し味方に与えた。牧原教授は、それで家康の地位が上がったのは確実だが本来は上に秀頼がいる、文書を出せない家康は口約束で領地を与えた、家康が完全に上位にあったわけではなく相対的な力関係で決めた、将軍になった段階で豊臣氏を滅ぼそうと思っていなかったと解説した。家康は1605年に息子の秀忠に征夷大将軍の地位を譲る。その後も家康は事実上の実権を握り続けた。1611年、二条城で久しぶりに上洛した家康と秀頼が面会。家康は秀頼は賢い人で人の命令を受ける様子はないと家臣に話したという。牧原教授は、このエピソードは後世の作り話、徳川が豊臣氏を滅ぼそうと覚悟したのは大坂の陣の前と解説した。
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