江戸末期の1814年に雲蝶は鬼子母神で知られる雑司ヶ谷の辺りで生まれた。若くして彫刻の修行をした雲蝶は20代半ばで江戸彫刻石川流の技術を習得。石川安兵衛源雲蝶と名乗った。幕府の御用を務めるほどの腕前だったが、老中 水野忠邦による天保の改革で芝居や浮世絵などの娯楽を弾圧し、人々の贅沢を厳しく規制。三条市にある本成寺は鎌倉時代に開かれた法華宗の総本山。6000坪の境内をもつ名刹。江戸で仕事を失った雲蝶がこの寺にやってきたのは32歳のころ。本成寺の檀家の内山又蔵に乞われ本堂の彫刻を依頼。しかし本成寺は明治時代の火災で全焼し作品も彼自身の記録も焼失。その中で残ったのは赤牛。けやきの木目をいかし、その力強さは今にも動き出しそうな造形。さらに本成寺の塔頭には獅子頭の作品が。三条の街で妻を娶り子どもも生まれ、越後の国に腰を落ち着けた。