石川県能登半島にある輪島市。古くから漆器作りが盛んでここで作られる優美で頑丈な漆器は輪島塗と呼ばれている。輪島塗は分業制で、そのほとんどが職人による手作業。工程は100以上にのぼる。傷ついたり、壊れたりしても職人たちが直して使えるようにするのが特徴。しかし2024年の1月1日に甚大な被害をもたらした能登半島地震が発生した。震度7の地震で輪島塗の工房の老舗漆器店の大徹漆器工房の建物は崩れ作業途中のものや集荷予定のものが潰れた工房に残されたままになっている。小さい頃から絵を描くのが好きだったという八井さん。東京の短大で日本画を学び、輪島塗の道へ。20年前に父から会社を引き継いだ。商品開発や販売を手掛ける総合プロデューサーの塗師屋となった。八井さんの日課は朝の散歩。
地震発生から半年が経過したがなかなか進まない公費解体を諦めて自費での解体を決意した。八井さんの両親の姿も。中小企業基盤整備機構などの支援で建てられた仮説工房。八井さんはここで仕事を再開するに。解体前の工房から回収した商品はホコリまみれ。一つ一つ綺麗にしたあと修復する。水をまく道具も、元の工房から持ち込まれた。漆塗りの作業は乾燥しすぎないように湿度70%を保つ必要がある。これまでの半年間、生活するだけで精一杯だったがようやく追いついて仕事ができるようになった。倒壊した工房の瓦礫の中から奇跡的に無傷で見つかったものがある。それは輪島塗の弦楽器。父の汎親さんが漆の魅力を海外に発信するために10年前から製造を始めた。輪島高校の入学式でこの楽器を使った演奏会が行われた。式には汎親さんも参加した。
分業制の輪島塗。職人仲間たちは避難してばらばらになっていた。小谷さんは重箱などの土台を作る木地師。地震から一ヶ月、小谷さんの工房は手つかずのまま。沈金職人の高出さん。沈金とは輪島塗に装飾する技法の一つだという。開いている飲食店もなく、夏になっても復旧はほとんど進んでいない。八井さんの工房では毎年行われる恒例イベントは大きな桶で生の漆をかき混ぜて作る天日黒目は、避難中で職人が戻らない中で八井さん親子を中心に行われた。生の漆を日光にあてながら2時間、焦げ茶色になるまで混ぜていく。八井さん親子は例年の作業をすることにこだわっていた。八井さんの両親は輪島市内の仮説住宅で暮らしている。また飼育しているペットは地震でケガをし目がみえなくなっているという。しかし後日みえるようになったという。
地震から半年、輪島塗を支援しようと全国から少しずつ注文が入った。一部商品の出荷もできるように。しかしその矢先に奥能登豪雨で豪雨が発生。幸い八井さんの工房は大きな被害を免れた。被害をうけた仮説住宅もあったが八井さんの両親の住宅は無事だった。
地震発生から半年が経過したがなかなか進まない公費解体を諦めて自費での解体を決意した。八井さんの両親の姿も。中小企業基盤整備機構などの支援で建てられた仮説工房。八井さんはここで仕事を再開するに。解体前の工房から回収した商品はホコリまみれ。一つ一つ綺麗にしたあと修復する。水をまく道具も、元の工房から持ち込まれた。漆塗りの作業は乾燥しすぎないように湿度70%を保つ必要がある。これまでの半年間、生活するだけで精一杯だったがようやく追いついて仕事ができるようになった。倒壊した工房の瓦礫の中から奇跡的に無傷で見つかったものがある。それは輪島塗の弦楽器。父の汎親さんが漆の魅力を海外に発信するために10年前から製造を始めた。輪島高校の入学式でこの楽器を使った演奏会が行われた。式には汎親さんも参加した。
分業制の輪島塗。職人仲間たちは避難してばらばらになっていた。小谷さんは重箱などの土台を作る木地師。地震から一ヶ月、小谷さんの工房は手つかずのまま。沈金職人の高出さん。沈金とは輪島塗に装飾する技法の一つだという。開いている飲食店もなく、夏になっても復旧はほとんど進んでいない。八井さんの工房では毎年行われる恒例イベントは大きな桶で生の漆をかき混ぜて作る天日黒目は、避難中で職人が戻らない中で八井さん親子を中心に行われた。生の漆を日光にあてながら2時間、焦げ茶色になるまで混ぜていく。八井さん親子は例年の作業をすることにこだわっていた。八井さんの両親は輪島市内の仮説住宅で暮らしている。また飼育しているペットは地震でケガをし目がみえなくなっているという。しかし後日みえるようになったという。
地震から半年、輪島塗を支援しようと全国から少しずつ注文が入った。一部商品の出荷もできるように。しかしその矢先に奥能登豪雨で豪雨が発生。幸い八井さんの工房は大きな被害を免れた。被害をうけた仮説住宅もあったが八井さんの両親の住宅は無事だった。
住所: 石川県輪島市河井町4-68