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「鈴鹿市の生い立ち」 のテレビ露出情報

明治時代に伊勢志摩は真珠養殖発祥の地として知られていた。戦後この地に良質な真珠を求めて進駐軍将兵やその家族などが多く訪れるようになると、ホテル建設が早急の課題に。しかし戦後の物資不足が課題に。そこで三重県鈴鹿市にあった海軍将校倶楽部という戦時中に建設された建物を移築しホテルの一部に再利用することに。海軍将校倶楽部を設計した人物こそ、村野藤吾だった。同じ建築家がいいと依頼されたという。当時の賢島は辺境の地で、視察におもむいた村野はその場所にホテルの建設をすることを不安視していた。昭和25年にホテル建設が始まると、水不足の問題や、台風被害などの困難に直面した。それでも翌年の4月に志摩観光ホテルは客室数2室の準様式ホテルとして、何度か開業にこぎつけた。この時村野は60歳。いまも、その建物の一部が残されている。村野の建築哲学の「99%を聞き1%に託す」とは、設計の99%はクライアントのために。残りの1%は自分にしかできない独自の表現を行うということ。

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