河内源一郎商店は本格焼酎メーカーの8割を顧客にもっている。麹蔵は観光施設にもなっていて今年には麹・発酵ホテルを建設。一泊2食付で2万5850円から。宿泊客は麹で味噌づくりなどを体験できる。山元は1950年に生まれたが、父で二代目の正明は娘婿だった。幼い頃から家業を継ぐことを決めていた山元は、東京大学農学部を卒業し27歳で河内源一郎商店で働いた。父は麹造りの機械化を行い、10年がかりで自動的に麹が作れるもの機械を完成させた。焼酎の品質もよくなると九州の蔵元の8割が使用する用になり大ヒット。父もまた時代の長寿に。しかし歯車が狂いだすのは1985年。父が自分でも焼酎を作ってみたいと錦灘酒造というメーカーを買い取った。麹屋が麹にこだわって作った焼酎は予想以上に売れた。しかし状況が一変する。
大量の在庫を抱え売れなくなってしまった自社製品について山元は酒屋に話を聞いてまわった。大手の焼酎メーカーが裏で問屋に圧力をかけていたことがわかったが、その時父は自分の息子をダシにして会社を守り、錦灘酒造の経営を山元に交代させ幕引きをはかった。さらに責任をとらせるように河内源一郎商店もクビに。焼酎を作っても売る場所もなく呆然としていた山元。そんな時目に入ったのは飛行機。その時に観光客に自分で売ることを思いつき一世一代の勝負に出、焼酎工場と観光施設の合体させようと金策に走り、銀行から8億円を引っ張り出した。1990年代には観光工場をオープンさせ、そこに焼酎の歴史を味わえる商品をつくり並べ、100年以上前の製造レシピをもとに再現したものも。しかし当初の売上は目標には届かず、資金が底をつきかけていたという。そこで、長年やってきた古流剣術の野太刀自顕流の道着を着て全国の旅行会社に営業してまわった。すると観光バスが並ぶようになり、評判が評判を呼ぶようになり年間45万人を呼び寄せる人気スポットに。その6年後には銀行からの借金も完済。父の死をきっかけに河内源一郎商店を引き継いだ。山元は父が自分に責任を押し付けた理由には父は社会的地位があがり焼酎の帝王となっていてプライドが許さなかったと答えた。山元はその責任を押し付けられ買収した酒造会社の社長にさせられたが、その絶望の中、人は金がなくなると酒に逃げるか眠くなるかどっちかだという。やけ酒はしたことはないが朝から眠い状況が続いていたが、人通りの無いところで車の中でどうしようかと考えながら毎日寝ていたという。
大量の在庫を抱え売れなくなってしまった自社製品について山元は酒屋に話を聞いてまわった。大手の焼酎メーカーが裏で問屋に圧力をかけていたことがわかったが、その時父は自分の息子をダシにして会社を守り、錦灘酒造の経営を山元に交代させ幕引きをはかった。さらに責任をとらせるように河内源一郎商店もクビに。焼酎を作っても売る場所もなく呆然としていた山元。そんな時目に入ったのは飛行機。その時に観光客に自分で売ることを思いつき一世一代の勝負に出、焼酎工場と観光施設の合体させようと金策に走り、銀行から8億円を引っ張り出した。1990年代には観光工場をオープンさせ、そこに焼酎の歴史を味わえる商品をつくり並べ、100年以上前の製造レシピをもとに再現したものも。しかし当初の売上は目標には届かず、資金が底をつきかけていたという。そこで、長年やってきた古流剣術の野太刀自顕流の道着を着て全国の旅行会社に営業してまわった。すると観光バスが並ぶようになり、評判が評判を呼ぶようになり年間45万人を呼び寄せる人気スポットに。その6年後には銀行からの借金も完済。父の死をきっかけに河内源一郎商店を引き継いだ。山元は父が自分に責任を押し付けた理由には父は社会的地位があがり焼酎の帝王となっていてプライドが許さなかったと答えた。山元はその責任を押し付けられ買収した酒造会社の社長にさせられたが、その絶望の中、人は金がなくなると酒に逃げるか眠くなるかどっちかだという。やけ酒はしたことはないが朝から眠い状況が続いていたが、人通りの無いところで車の中でどうしようかと考えながら毎日寝ていたという。
住所: 鹿児島県霧島市溝辺町麓876-15