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「震災」 のテレビ露出情報

1923年9月1日午後4時前、隅田川沿いの陸軍被服廠跡に避難者が殺到した。軍服工場が移転したあとにできた広大な空き地で「何かあったら被服廠跡へ」が地元民の合言葉だった。地震発生直後の被服廠跡を撮影した写真では、広場のあちこちで水道管が破裂し足元は水浸しになっていた。4万人が避難したが、数時間後には焼け焦げた遺体で埋め尽くされた。現在は東京都慰霊堂が建っており、中に掲げられている絵には火災旋風が人々を襲う様子が描かれていた。なぜ火災旋風が起きたのかは今も謎のままだが、建築研究所の協力を得て火災旋風発生のメカニズムの解明を試みた。9月1日午後、観測データでは強い南風が吹いており被服廠跡を取り囲むように3方向から火災が迫っていた。100分の1スケールで当時の地図と風を再現して火を起こすと、巨大な火柱が立ち上った。被服廠跡の脇を流れる隅田川上では南風が障害物がないためスムーズに流れていたが、市街地の風は流れが遮断され弱くなっていた。専門家は被服廠跡の外側と内側で風邪の速度差が生まれたことで火災旋風が発生した可能性が指摘した。午後4時頃高さ数十メートルが広場の外側で火災旋風が発生した。火の粉が持ち込まれていた家財道具に燃え移り、広場の中で新たな火災が発生。火災旋風はそこに引き込まれていった。避難した4万人のうち3万8千人が命を落とした。
9月1日夕方、家を失った100万以上の人々が東京中をさまよっていた。東京駅の駅舎やホーム、停車中の列車は即席の避難所となった。50万人が避難した上野公園では群衆の中で家族を探す声が飛び交った。皇居前広場も臨時の避難場所となり、30万人が避難した。当時9歳でのちに作曲家・三木鶏郎として知られる繁田裕司もこの場所に逃げ込んでいた。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年6月30日放送 1:10 - 1:50 NHK総合
首都圏いちオシ!中川家礼二の沿線いちオシ!東武東上線沿線SP
東武東上線についてトーク。ときわ台について中川は「本当は線路を敷く予定だった」などと話した。大山のクレープについては、1977年原宿でクレープ店が開業し大人気になった。太田は東上線沿線の住人は原宿が敷居が高く大山が大盛況になったとコメント。太田の思い出の地はときわ台。母校の大東文化第一高校は男子校で、当時女子校だった淑徳高校の生徒に熱い視線を送っていたという[…続きを読む]

2024年6月26日放送 14:05 - 14:50 NHK総合
列島ニュース列島ぶらり旅
散策マップを作った明治大学の学生に神田駿河台を案内してもらう。関東大震災の4年後に復興のシンボルとして架けられた聖橋は、総武線・中央線・丸の内線の路線が交わって見える。角度や時間によって変化する風景が魅力。神田猿楽町の男坂も関東大震災後の都市整備の中で設けられた。両側には明治大学の校舎があり、「虎に翼」の主人公が通った女子部の校舎だった。続いて神田神保町で明[…続きを読む]

2024年6月25日放送 20:55 - 22:00 TBS
マツコの知らない世界マツコの知らない西荻窪の世界
西荻窪は高級料理店・お手軽飲み屋・外国料理店が入り混じり、独自の食文化を形成している。関東大震災以降、文化人が地盤の固い武蔵野台地に別荘を構えるようになり、それが西荻窪における高級料理文化の土壌になったという。その後の東京大空襲によって西荻窪周辺に闇市ができ、これがお手軽飲み屋文化の土壌になったとのこと。

2024年6月23日放送 4:15 - 4:18 NHK総合
カラーでよみがえる東京(カラーでよみがえる東京)
明治時代から新たな文化の発信地として栄えてきた銀座。大八車や馬車鉄道が行き交っている100年前の映像をカラー化し伝えた。大正時代には路面電車が交通の主役となり、関東大震災の数年後にはモダンガールがお洒落を楽しんだなどの様子が伝えられた。

2024年6月22日放送 22:00 - 22:30 テレビ東京
新美の巨人たち(新美の巨人たち)
横浜市立子安小学校を、松丸亮吾が訪れた。子安小学校は、山本理顕設計工場が設計した。子安小学校は明治6年に創立し、メディアセンターには創立145年記念に児童が制作したステンドグラスが展示されている。子安小学校は、校舎と体育館の間に庭があり、階段横の吹き抜けは換気を担っている。

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