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「隠退の図」 のテレビ露出情報

山形県米沢市・普門院へ。依頼人は郡司晃宏さん(36歳)。普門院は853年に設立された真言宗の古刹で、江戸時代には米沢藩の殿様が参勤交代で江戸に行く際の休憩所としても使用された。細井平洲は尾張国の儒学者で実践の学問「実学」を重視。民の苦しみを救うことを目的としたその教えは全国各地の大名から庶民まで幅広く支持された。依頼品は「上杉鷹山の書状」。
アメリカ合衆国35代大統領ジョン・F・ケネディは尊敬する日本人はと問われ「Yozan Uesugi」と答えたという。上杉鷹山は米沢藩中興の祖と詠われた名君。鷹山は隠居後の号で名を治憲という。10歳の時、米沢藩8代藩主・上杉重定の養子となり、わずか17歳で9代藩主に就任。しかし、当時、米沢藩の財政は破綻寸前であった。上杉家は戦国武将・上杉謙信を祖とする名家であり、景勝の代には120万石の石高を誇っていたが、関ヶ原の戦いで敗北。さらに跡継ぎ問題がこじれて幕府から処分を受け、15万石に減少していた。にもかかわらず家臣の数は謙信のころとほぼ同じであったため、出費がかさみ膨大な借金を抱えていた。そこで鷹山が行ったのが徹底した倹約と荒廃していた農村を再興すること。その際、鷹山は自らクワを持って新田開発に当たった。自身が率先して行動することで家臣たちにやる気を起こさせた。さらに教育こそ改革の要と考えた鷹山は藩校「興譲館」を設立。儒学者・細井平洲を米沢に招き、人材の育成に力を注いだ。しかし1783年、浅間山の大噴火により東北一体は冷害に見舞われ死者が続出。米沢藩の財政は再び悪化し改革は振り出しに戻った。鷹山は35歳で養子の治広に家督を譲り、隠居してしまうが、これは藩主を退けば参勤交代に縛られず、国元での仕事に専念できるからであった。そのため隠居後も財政再建の道を模索。身分を問わず、誰でも意見を述べることができる上書箱を設置し、広く意見を求めた。ここで提案された灌漑事業を実行したことでコメの収穫量は増大。この時作られた農業用水路は現在も使われている。さらに養蚕を奨励。蚕の飼育方法などを記した解説書を配布するとともに越後から職工を招き藩主の妻や娘に機織りの技術を学ばせた。こうして生まれたのが良質な絹織物「米沢織」。これにより藩はようやく財政危機を乗り越えることができた。鷹山は「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬ成りけり」と残している。

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