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「首里(沖縄)」 のテレビ露出情報

戦後80年となる今年「いまを、戦前にさせない」をテーマとした特集を伝える。日本で初めて戦場に動員された中学生による部隊の足取りを辿った。80年前の沖縄戦、兵士不足の中、日本で初めて男子中学生の学徒隊を兵士として動員した「鉄血勤皇隊・通信隊」。沖縄県内の12の中学校から1500人以上が動員され半数以上が犠牲となった。旧制・沖縄県立第一中学校からは335人が動員された。鉄血勤皇隊・通信隊は4月1日のアメリカ軍上陸直前、日本軍の司令部があった首里に配置され沖縄決戦を迎える。中には爆弾を背負い戦車に突入する斬り込みに行かされた生徒もいた。しかし5月末、首里が陥落。日本軍は本土決戦までの間稼ぎのためにさらなる消耗戦を選択し南部の摩文仁へ撤退。鉄血勤皇隊と通信隊も司令部とともに移動し摩文仁の地で最後まで戦った。斎藤キャスターは生徒たちの足取りをたどるために摩文仁を訪れた。写真を手がかりに通信隊最後の地とされる場所を特定した平和ガイドの仲村さんに話を伺いながら写真の場所をみせていただいた。鉄の暴風と形容されるアメリカ軍の砲爆撃が吹き荒れる中、生徒たちは何を見たのか?摩文仁の丘の先にあるという通信隊最後の地は岩穴などに身を隠していたという。海の近くまで進み切り立った崖を登ったところにあったのが通信隊最期の地「岩陰壕」に到着。ここにたどり着いてからは食料・水の確保や見張り番をする日々で生徒たちは、戦うことも逃げることもできず一方的な攻撃で追い詰められた。ここで亡くなった1人・富名腰朝昭さん(当時14)は5人きょうだいの長男で真面目な性格で運動神経がよかったという。同級生の証言によると、アメリカ軍が迫る中食料を運搬していたときに砲弾の破片がお腹を切り裂いたという。その後同級生が米をすて救助するも上官から激しく叱責されたという。岩陰壕の近くにあったのが写真の場所。今年3月、新しく目印の柱が建てられた。仲村さんは、歴史に埋もれさせないため、記憶の記録が大切だと話した。斎藤キャスターは沖縄での取材について、とくに胸を締め付けられたのは遺書の数々だったなどとのべた。日本テレビでは戦後80年に際し戦争に関する記録を探しているとし情報を募集した。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年6月23日放送 16:05 - 17:00 NHK総合
午後LIVE ニュースーン(ニュース)
アメリカ軍は沖縄本島中部に上陸した後、激しい戦闘を繰り広げながら南下した。標的は首里城の地下に張り巡らされた第32軍司令部壕で、第32軍の牛島満司令官が戦闘の指揮をとっていた。家族5人を沖縄戦で失った照屋苗子さんは、首里城に近い寒川地区の壕に家族や近所の人たちと身を寄せていた。その後、軍が首里で1週間戦争を食い止めるとして南部に逃げたが富盛の壕ではよそ者だと[…続きを読む]

2025年6月23日放送 12:20 - 12:58 NHK総合
沖縄全戦没者追悼式戦後80年 沖縄全戦没者追悼式
沖縄全戦没者追悼式が行われる糸満市の平和祈念公園から中継。80年前、アメリカとの戦争で最後の激戦区となった糸満市。きょう6月23日は「慰霊の日」。旧日本軍による組織的な戦争が終わったとされる。80年前の沖縄戦では住民たちが悲惨な戦争に巻き込まれ犠牲になった他、いわゆる「集団自決」で命を落とした人もいた。沖縄戦で20万人以上の住人が死亡。平和祈念公園内にある平[…続きを読む]

2025年1月12日放送 18:00 - 18:55 日本テレビ
真相報道バンキシャ!NNN戦後80年プロジェクト いまを、戦前にさせない
いまから80年前、米国軍に撃沈され、乗っていた1000人を超える15歳以下の子どもたちが犠牲となった「対馬丸」。桝太一が、対馬丸が攻撃される瞬間を別の船から見ていた方を取材。何が生と死を分けたのか。自身の体験と思いをカメラの前で初めて語った。那覇市首里で暮らす89歳の源河圭一郎さんはあの日、海に沈んでいく対馬丸を、別の船から見ていたという。沖縄に戦火が迫って[…続きを読む]

2024年12月27日放送 13:05 - 13:55 NHK総合
列島ニュース列島ニュースアップ 沖縄局
琉球史研究家・賀数仁然さんと取材。八重瀬町へ。「唐人そば」を紹介。沖縄のそばの始まりは明治時代。当時中国で食べられていたしょうゆ味の麺がルーツといわれている。県内の食品会社が調査した明治、大正ごろの「沖縄そばに関する調査報告書」には、職人たちが腕を競った記録が記されていた。1944年10月10日の大規模な空襲、地上戦が沖縄を襲った。那覇の9割が焼かれ、そば屋[…続きを読む]

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