斎藤博子さんは18歳の頃に在日朝鮮人の正二さんと結婚しその後長女を出産。北朝鮮は地上の楽園と言われていて、博子さんは日本人は3年たったら日本に戻れると信じ北朝鮮へ渡ることを決意。1961年6月、夫と長女・夫の両親・きょうだいと乗船し北朝鮮へ。同じ船には1100人以上が乗っていたという。北朝鮮に渡った9万人以上の在日朝鮮人の大半は朝鮮半島南部の出身者とみられている。
博子さんは北朝鮮到着の際に異変を感じダマされたと思ったという。到着後は指定された居住地・職場に配置され博子さんは中国との国境に近い田舎町「恵山」へ配置された。水道が通っていない4階建てアパートで最初の数年はコメやトウモロコシの配給が15日ごとにあったが1週間もすればなくなる量だったという。夫・正二さんは技術者を経てメガネ工場の社長となるが名前だけの社長で生活は楽にならなかったという。1985年以降は年に一度、日本にいる父から約20万円の送金があった。しかし1993年に父が他界し送金がなくなり翌年正二さんも結核で亡くなった。1994年金日成主席が亡くなり北朝鮮側は日本からお金も手紙も来ないようにして帰国者は苦しい生活になる。博子さんは食糧難で盗みや銅線密売などの闇商売にも手を染めた。
博子さんは北朝鮮到着の際に異変を感じダマされたと思ったという。到着後は指定された居住地・職場に配置され博子さんは中国との国境に近い田舎町「恵山」へ配置された。水道が通っていない4階建てアパートで最初の数年はコメやトウモロコシの配給が15日ごとにあったが1週間もすればなくなる量だったという。夫・正二さんは技術者を経てメガネ工場の社長となるが名前だけの社長で生活は楽にならなかったという。1985年以降は年に一度、日本にいる父から約20万円の送金があった。しかし1993年に父が他界し送金がなくなり翌年正二さんも結核で亡くなった。1994年金日成主席が亡くなり北朝鮮側は日本からお金も手紙も来ないようにして帰国者は苦しい生活になる。博子さんは食糧難で盗みや銅線密売などの闇商売にも手を染めた。
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