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「B-29」 のテレビ露出情報

1945年3月3日、アメリカ軍のB-29が公園周辺に8発の爆弾を投下した。死者2人、空襲による県内初の犠牲者だった。1945年3月~5月を中心にアメリカ軍は県内ほぼ全てを写真を撮影し山口は丸裸にされていた。アメリカ軍は撮影した写真から読み取ろうとしたのか。山口県内には4か所の石油基地があり、東側には大きな兵器工場があり優先度の高いも起票が山口県内にはたくさんあった。アメリカ軍の県内施設についてまとめた報告書が残されている。うち1つ大島油槽所について偵察写真で判明した施設面積や爆弾の命中率を計算すると480トンあまりの爆弾が必要だと結論付けてる。アメリカ軍は偵察結果から緻密な攻撃計画を練っていた。
当時、国民学校3年生だった橋本さんは学校ではるか上空を飛ぶアメリカ軍の飛行機を見ても危機感を抱くことはなかったという。一方、県内軍事施設の関係者は空襲への危機感を強めていた。兵器の製造を行っていた光海軍工廠は空襲に備え製造に使う機械を工場から1km離れたトンネルに移動させていた。当時、柳井高等女学校2年生だった森重さんは光海軍工廠に動員されていた。そのトンネルが今も残されている。全長約100m、高さ・幅2.4mの空間にぎっしり兵器の製造機械を運んだという。1945年5月10日、偵察を重ね準備を重ねていたアメリカ軍はついに県内の軍事施設を狙った空襲を始める。30分続いた空襲。犠牲者は500人以上に上った。同じ日、アメリカ軍は岩国の燃料廠を攻撃。その後も6月30日には下松、7月1日には宇部と立て続けに軍事関連施設を攻撃した。
アメリカ軍が攻撃対象としたのは陸地だけではない。現在、1000隻が行き来する関門海峡。2013年6月、太平洋戦争中に投下された機雷が発見された。水中に投下され近づいてきた船に反応して爆発する機雷は海上の交通を妨げる為使われていた。アメリカ軍は関門海峡の海 底にある関門トンネルの存在にも気づいていた。1942年に開通した関門鉄道トンネルは石炭や物資、兵器の輸送を担う交通の要だった。アメリカ軍は偵察の中で下関側のトンネル入口を発見。撮影した写真をもとに精密な地形模型を作成した。底には下関駅やトンネル入り口も精密に再現されている。6月に入るとアメリカ軍は日本海側への機雷の投下も進めていく。大陸への玄関口を探るためだ。
当時、アメリカ軍の機雷の投下を防ぐため任務に当たっていた松坂さん。しかし松坂さんたちが打った球がB-29に当たることは一度もなかった。高射砲を打つ中で仲間が犠牲になることもあったという。1945年7月2日、空襲は新たな局面を迎える。狙われたのは最大の都市・下関の市街地。使われたのは焼夷弾。多くの民家が焼き払われた。失った建物の数は1万戸以上と記録されている。同じ日、第2の都市だった宇部の市街地も攻撃。2つの都市の犠牲者は500人に上った。アメリカ軍が発行したレポートには日本の全国民が軍隊の一員であり標的であると書かれている。さらにアメリカ軍は攻撃目標とする108の都市のリストを作成。県内では下関や宇部に加え山口など9つの都市が標的とされた。7月27日未明、アメリカ軍が向かったのは徳山の市街地を攻撃。市街地の9割が焦土となり、482人の市民が犠牲となった。
8月6日、広島への原子爆弾の瞬間が県内でも目撃されていた。当時、岩国駅で勤務していた竹中さんは新型爆弾が投下されたという噂を耳にし、何か手伝えることはないかと貨物列車に乗り込み広島へと向かう。街が死体で溢れる中、竹中さんは生き残った人の助けになりたいと救護所へ向かう。8月14日、御前会議でポツダム宣言を受け入れ降伏する事が決まろうとしていた。しかし終戦前日が山口で最も多くの命が奪われた。狙われたのは岩国駅。空襲が始まったのは11時55分、空襲は30分続いた。同僚を助けようと駆けつけた竹中さんが目にしたのは変わり果てた岩国の街。投下された爆弾2839発、一面に無数の穴が開いていたのだ。岩国の攻撃を受け、兵器工場があった光市でも空襲警報が発令されていた。午後1時17分、空襲開始。午後2時4分、攻撃はトンネル付近にまで広がった。終戦前日、犠牲者は1200人以上。この年に空襲で亡くなった人の3分の1を超える。
8月15日、竹中さんは壊滅的な被害を受けた岩国駅で対応に追われていた。森重さんはラジオで終戦を知る。1945年、3月から終戦までの5か月あまり30回以上の空襲により分かっているだけで3200人以上の命が奪われた。2025年、94歳になった竹中さん。犠牲者の慰霊を続けている。終戦から80年、犠牲になった人々の存在を忘れることはない。1945年の山口市。語り継ぐべき戦争がそこにはあった。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年8月25日放送 16:05 - 17:00 NHK総合
午後LIVE ニュースーンおとりよせ@新潟
空襲を経験した一人が小説家の阿刀田高さんは直木賞を受賞している。阿刀田高さんは長岡で生活をしていた子供時代。東京から家庭疎開をした。小学生に田んぼが義務付けられていたと米作りをした体験は日本人としてよかったなどと話す。1945年8月1日、夜10時半。長岡にB29が120機以上とんできた長岡空襲。田んぼの畦道を走って避難したと当時を語る。空襲から一夜明けて見た[…続きを読む]

2025年8月23日放送 4:50 - 5:20 テレビ朝日
テレメンタリー2025テレメンタリー2025
今回は軍都80年〜ものづくりと防衛産業〜をお届け。名古屋はもともと軍需工業都市になったはその都市は空襲の標的になり多くの犠牲者を出した。防衛産業が新たな選択肢となり始めている。日本銀行本店には戦時中の軍事産業がどのように拡大していったのか、極秘資料が保管されている。資料の一つには名古屋の地図があり、市販の地図に薄紙を重ねることで極秘の地図が浮かび上がり、赤字[…続きを読む]

2025年8月17日放送 7:40 - 7:45 NHK総合
NHKニュース おはよう日本(ニュース・気象情報)
埼玉県熊谷市で、空襲の犠牲者を追悼する灯ろう流しが行われ、約1000人が参加した。昭和20年8月14日の空襲では266人が犠牲となり、市街地の3分の2が焼け野原となった。

2025年8月15日放送 16:48 - 18:50 テレビ朝日
スーパーJチャンネル(ニュース)
15歳の上皇さまの平和への思いは次世代に受け継がれている。今年の戦没者追悼式で天皇陛下は例年とは違う一言を付け加えられた。天皇陛下は、戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願いますと述べられた。日光に疎開中の上皇さまは田母沢御用邸や植物園に歩いて行っていたという。日光田母沢御用邸は現在も残されており、2階から皇居の方[…続きを読む]

2025年8月14日放送 0:35 - 1:47 NHK総合
NHKスペシャルNHKスペシャル
1941年、太平洋戦争が開戦。直後、破竹の勢いで占領地を広げていった日本。しかし、わずか半年後、ミッドウェー海戦を期に太平洋で敗北を重ね、勢力圏を縮小。死守すべき領域として絶対国防圏を設定した。開戦以来、日本の勝利を信じていた主婦・金原まさ子(33)。その頃、アメリカでは最新の戦略爆撃機B-29。それまでの爆撃機の能力をはるかに凌ぐものだった。その出撃拠点と[…続きを読む]

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