今回の運命の分岐点は1992年5月22日。イビチャ・オシムがユーゴスラビアの代表監督を辞任した日だ。その2年前にユーゴスラビアはW杯でベスト8入りしていたが、ユーゴスラビアは民族紛争で分裂し選手たちも分断されてしまった。最初の視点はオシムの元でユーゴスラビア代表選手としてプレーしたドラガン・ストイコビッチだ。民族紛争が起きた時は、代表選手選びで批判に晒され、その矛先が選手に向かうこともあったという。ただオシムは「スポーツにおいて政治的配慮は必要ない」と民族主義の圧力をはねのけて、イタリアW杯本大会出場を決めたという。
ユーゴスラビア代表は準々決勝に進み、マラドーナのいるアルゼンチンと対戦しPKの結果、ユーゴスラビアは敗退した。ただストイコビッチはベスト8に入ったので大きな成功だったと当時について語った。しかし民族紛争は激しくなり各地で独立宣言がされる状況になってオシムは涙を流しながら代表監督を辞任した。オシムはその後、ヨーロッパ各国のチームを転々として、日本にたどりついた。
ユーゴスラビア代表は準々決勝に進み、マラドーナのいるアルゼンチンと対戦しPKの結果、ユーゴスラビアは敗退した。ただストイコビッチはベスト8に入ったので大きな成功だったと当時について語った。しかし民族紛争は激しくなり各地で独立宣言がされる状況になってオシムは涙を流しながら代表監督を辞任した。オシムはその後、ヨーロッパ各国のチームを転々として、日本にたどりついた。