午後LIVE ニュースーン 蔵出しセレクション
ビビる大木さんオススメ、2000年放送、プロジェクトX 挑戦者たち「窓際族が世界規格を作った」。会社のお荷物と陰口を叩かれていた日本ビクターVTR事業部長・高野鎮雄を就任。当時ビクターは申告な経営危機に陥っていた。事業部は業務用VTRを組み立て企業などに売り歩くのが仕事。昭和47年ビクターは経営危機のため人員整理を断行。本社のVTRの開発部門の廃止が決定。今後は既存の業務用VTRの改良と販売をする決定となった。本社から50人の技術者が高野の事業部へ。その顔ぶれをみて高野は喜んだという。そこで技術者の1人白石勇磨に極秘計画を高野が家庭用VTRを独自開発したいと打ち明け、本社が知れば処分は免れない計画だった。昭和47年、高野を中心とした家庭用VTR開発プロジェクトが誕生。しかし業務用VTRの在庫が増え毎月赤字となっていた。そこで本社は高野に技術者の3割削減をせまった。高野は本社の目をごまかすために新しい営業部をつくり、20人の技術者をあつめ給料分はVTRを打って稼いでほしいと辛い決断を頼んだ。技術者の営業部隊は開発プロジェクトを助けるため消費者がどんなものを求めているのか技術者の目で調べた。その結果、VTRの小型化・長時間番組の録画を望んていることがわかった。そこでプロジェクトチームは2時間録画を目標とした。昭和49年12月、SONYが家庭用VTR(ベータマックス)開発に成功したというニュースが発表。ビクターのプロジェクトチームが最終試作機を完成させたのは昭和50年8月。のちにVHSと名付けられたビデオはベータより5キロかるく小型化に成功。高野は大手メーカーを次々訪問しVHSを普及させるため企業を超えたプロジェクトの結成を呼びかけた。昭和51年9月9日、ビクターはVHT1号機を発表。VHSには各社の技術が総動員され新しい機能が次々追加された。VHSはアメリカ・ヨーロッパの市場をおさえ発売から7年後ベータを逆転し世界標準規格に上り詰めた。高野は1人のリストラもせず270人の社員全員を守った。高野は1990年の自身の送別会で「夢中でしたね。夢中っていうのは大変すばらしいことだと思う。ぜひ皆さんも何でもいいですから夢中になってください」と言葉を残しその2年後に突然ガンで亡くなった。平成4年1月21日、高野の棺をのせた車は思い出の横浜工場を通過し社員全員が見送った。そこには「ミスターVHS」の横断幕が掲げられていた。ビビる大木さんは、10歳くらいでVHSが我が家に来たなどと話し当時の危機を触れた家族だんらんなどエピソードを話した。