笑わない数学 (笑わない数学)
1607年、フェルマーはフランスのボーモン・ド・ロマーニュで生まれた。確率論や幾何学など当時は最先端だった研究を行い、数学界をリードしていた。フェルマーは30歳の頃、「2乗よりも大きいべきの数を同じべきの2つの数の和で表すことは不可能である」というメモを本の余白に残した。さらに「私は真に驚くべき証明を見つけたがこの余白はそれを書くには狭すぎる」と書き残し、この世を去った。これが「フェルマーの最終定理」の誕生。フェルマーの最終定理にはレオンハルト・オイラーやソフィ・ジェルマンが証明しようと挑んだ。
1776年、ジェルマンはフランス・パリの裕福な家庭に生まれた。当時のフランスでは女性が数学を学ぶことは社会的に受け入れられていなかった。両親は数学を学ぶことを止めようとしたがそれを押し切って独学で数学を学び続けたという。1804年、ジェルマンはたくさんのnの場合を一気に証明する方法を考え出した。素数のうち2倍して1を足したものがまた素数になるものなら、ある一定の条件のもとでフェルマーの最終定理が成り立つことを証明した。しかし、女性であることを理由に論文として発表することは認められなかったという。ジェルマンは30歳の時に自分が女性であることをガウスに打ち明けた。ガウスはジェルマンに自分が所属するゲッチンゲン大学の名誉学位を授けようと動いた。しかし、その直前にジェルマンは55歳でこの世を去った。フェルマーの最終定理とは関係のないところで行われていた研究が突破口を開くことになった。
志村五郎と谷山豊の研究テーマは「方程式の問題と不思議な絵がつながっているのでは?」というものだった。方程式の問題は時計を使って解くというルールだった。不思議な絵とはエッシャーが描いた「円の極限III」という作品である数式が持つ特徴とそっくりだという。志村五郎と谷山豊は時計を使って解く数式とエッシャーの絵に関係する数式について表を作った。すると数字が全く同じになった。志村五郎と谷山豊は「志村-谷山予想」と呼ばれる問題を世に送り出した。しかし、志村-谷山予想の正しさを証明することはできなかった。1986年、志村-谷山予想がフェルマーの最終定理と結びつくという事実が発見された。
アメリカのケン・リベット博士がドイツのゲルハルト・フライ博士とともに志村-谷山予想とフェルマーの最終定理が結びつくという事実を発見した。この瞬間、志村-谷山予想が正しいと証明できればフェルマーの最終定理も正しいことが証明できるという事実が明らかになった。イギリスのアンドリュー・ワイルズ博士が志村-谷山予想の証明に挑戦した。1995年、ワイルズ博士はリチャード・テイラー博士とともに証明を完成させた。フェルマーの最終定理の誕生から約350年、数学史上最大の難問は解決した。