プレイングマネジャーの勇断〜トップへの岐路〜 (プレイングマネジャーの勇断〜トップへの岐路〜)
1991年、中島篤は上司から海外留学を打診される。三菱地所は海外事業に向けた人材育成を考えていてそのうちの一つが米国留学制度だった。こうして中島は海外留学生第一号としてカリフォルニア大学バークレー校へ留学。海外留学を終えて本社に戻った中島は開発現場への希望を出したが希望は叶わず経理部へ。そんな中、ニューヨークで不動産不況が起き三菱地所は2つのビルを残して12棟を売却。ロックフェラーグループ株式の評価損1500億円強を計上し上場以来初の最終赤字に陥った。その後日本でもバブル崩壊で丸の内の町は閑散とし丸の内のたそがれと揶揄された。
中島は都市開発事業部に移動し主任クラスとなって進めたのは不動産の証券化。2000年、国はSPC法を整備し個人でも不動産投資がしやすくなった。不動産の証券化は三菱地所に大きな利益をもたらし中島は市場の拡大に貢献した。2004年、中島はは経営企画部の副長に昇進。その後、藤和不動産を完全子会社化。2011年、中島はロックフェラーグループへの出向を命じられる。中島はアメリカ人社長と三菱地所との間に挟まれながらも束の間の息抜きになったのはランニング。2014年アメリカ人社長の退任に伴い日本人初のロックフェラーグループインターナショナル社社長に就任。特に苦戦したのは現地社員との関係性だった。
