- 出演者
- 田中瞳
オープニング映像。
「地球の歩き方」は海外旅行のバイブル的存在として長年君臨してきたが今は国内版シリーズも大人気。国内版シリーズは全29種類、累計発行部数は120万部。しかし「地球の歩き方」はコロナ禍で消滅の危機に陥っていた。出版元のダイヤモンド・ビッグ社は倒産したが、学研は事業を出版元から買い取り新会社「地球の歩き方」を設立し業績をV字回復に導いた。学研は1990年代頃から少子化などの影響で業績が悪化したが2010年に新社長が就任すると1年で増収に転じ以降16期連続の増収に。その新社長の名は宮原博昭。宮原は防衛大学校の卒業生でパイロットを目指していたという。
- キーワード
- SARSコロナウイルス2アフロイギリスダイヤモンド・ビッグ社フランス地球の歩き方地球の歩き方 調布市学研ホールディングス学習学習研究社小美玉市(茨城)深大寺百里基地真光書店真光書店 北口本店科学自衛隊調布市(東京)防衛大学校
学研を代表する子ども向け教育雑誌「科学」「学習」。付録は体験学習ができる上、遊び心もあり当時の子どもたちは夢中になった。そんな学研は医療・福祉の分野にも進出し16期連続の増収を続けている。一時は経営の危機に陥った学研を立て直した社長・宮原博昭だが、社長就任までの道のりは逆境の連続だった。パイロットを目指して防衛大学校に進学したがケガでパイロットを断念。卒業後、貿易会社に就職するも国のために働きたいと考えて学研に入社。ただし非正規雇用の採用で配属は学習塾「学研教室」。入社1カ月で退職願を出したが上司から退職を引き止められ仕事に打ち込む決意をした。兵庫県の学研教室の生徒数を全国1位にする目標を掲げプロモーション活動に力を入れた。生徒数が急増し部下ができたことがプレイングマネージャーの始まり。阪神・淡路大震災で生徒たちも多く被災し、宮原は自ら考えた復興プランを持って東京の本社に掛け合った。
学研教室のプレイングマネージャー時代に神戸で被災した宮原博昭は教室の立て直しに動く。自ら考えた復興プランを持って東京の本社に掛け合ったが地域限定社員の限界を悟り出世を決意した。その後、学研は深刻な経営不振に陥り全国の支社を廃止を決断。宮原は小さい事務所を作るよう社長に直談判した。社長からは東京本社で学研教室の責任者をするなら許可すると言われたが宮原は神戸に残ることを決断。最終的に小さな事務所設立の許可が下り宮原は事務所作りに全国を駆け回った。
宮原は約3カ月で47都道府県に事務所を設立。地域限定社員として西日本の学研教室を統括する立場になる異例の出世を果たした。そんな中、東京本社への移動を要請され入社17年目にして学研の正社員になった。本社勤務では神戸ではできなかったダイナミックな事業に挑む。高校生を対象にした塾をM&Aしさらなる拡大を図った。創造学園は学研のグループインという考え方に賛同しM&Aの提案を受け入れた。宮原の功績が認められ2010年代表取締役社長に就任。社長になってからはサービス付き高齢者住宅の事業を拡大させ、学研は一気に黒字に転じ16期連続の増収を続けている。
東京・丸の内などの様々なイベントを仕掛けまちづくりの新たな可能性を追求し続けている会社が三菱地所。大手町・丸の内・有楽町には約5000社の事業所と上場企業の本社が145社あり、このエリアのビルの3割を管理運営している。様々な事業を手掛ける三菱地所の売上高は約1兆6000億円。2023年に社長に就任した中島篤は三菱地所の花形事業から外れた道を歩んできたが与えられた使命を誠実に全うしトップに上り詰めた。
- キーワード
- Marunouchi CrossingTHE FRONT ROOMTOKYO TORCH 常盤橋タワーYAU STUDIOフレンチトーストローズウッド宮古島三菱地所丸の内イルミネーション 2025丸の内ビルディング丸の内夏祭り 2025丸の内(東京)丸ビルホール吉田淳一大手町・丸の内・有楽町 仲通り綱引き大会2025大手町(東京)宮古島小池百合子新丸の内ビルディング有楽町(東京)来夢来人東京都
丸の内一帯は陸軍の軍用地だったが移転のため1890年、岩崎彌之助が丸の内エリアを買い受けた。その金額は当時の東京市の年度予算の3倍。その後三菱は丸の内の開拓に本格的に乗り出すと1894年日本初のオフィスビルを竣工。1923年丸の内ビルヂングを竣工し日本で初めてショッピング街をオフィスビル内に作った。その後も丸ノ内を日本有数のビジネスセンターへと発展させていく。中島篤は東京大学を卒業し1986年に三菱地所に入社。企画部に配属され事務作業中心の仕事をしていた。1989年三菱地所はロックフェラーグループの経営に参画。
1991年、中島篤は上司から海外留学を打診される。三菱地所は海外事業に向けた人材育成を考えていてそのうちの一つが米国留学制度だった。こうして中島は海外留学生第一号としてカリフォルニア大学バークレー校へ留学。海外留学を終えて本社に戻った中島は開発現場への希望を出したが希望は叶わず経理部へ。そんな中、ニューヨークで不動産不況が起き三菱地所は2つのビルを残して12棟を売却。ロックフェラーグループ株式の評価損1500億円強を計上し上場以来初の最終赤字に陥った。その後日本でもバブル崩壊で丸の内の町は閑散とし丸の内のたそがれと揶揄された。
中島は都市開発事業部に移動し主任クラスとなって進めたのは不動産の証券化。2000年、国はSPC法を整備し個人でも不動産投資がしやすくなった。不動産の証券化は三菱地所に大きな利益をもたらし中島は市場の拡大に貢献した。2004年、中島はは経営企画部の副長に昇進。その後、藤和不動産を完全子会社化。2011年、中島はロックフェラーグループへの出向を命じられる。中島はアメリカ人社長と三菱地所との間に挟まれながらも束の間の息抜きになったのはランニング。2014年アメリカ人社長の退任に伴い日本人初のロックフェラーグループインターナショナル社社長に就任。特に苦戦したのは現地社員との関係性だった。
ロックフェラーグループの社長になった中島篤は現地社員との関係に頭を悩ませた。そんな中島に救いの手を差し伸べたのはアメリカ人の広報担当者。中島と社員との間に入り良好な関係を作ってくれた。真面目を武器にしていた中島だったがリスク覚悟でアメリカ中の物件を広く開拓し攻めに打って出た。海外で成果を上げた中島は2023年三菱地所の社長に就任。2028年に竣工予定のTorch Towerは大丸有の新たなランドマークになる予定。中島の飽くなき挑戦は今も続いている。
