元軍医の遺言 特攻と覚醒剤

2025年8月25日放送 0:57 - 1:09 日本テレビ
NNNドキュメント’25 (NNNドキュメント’25)

元軍医の蒲原宏さん。1923年、新潟市内の寺の長男として生まれる。18歳で太平洋戦争が始まると、「生きものを殺さない」という仏教の戒律を守るため医者を目指す。1945年2月、鹿児島の基地に軍医として配属される。このころの日本は劣勢。44年10月、搭乗員もろとも体当りする特攻作戦が始まった。当時蒲原さんが命じられたのは、特攻兵にヒロポン(覚醒剤)を投与すること。当時、各国が類似の覚せい剤を使っていた。
元軍医の蒲原宏さん。戦時中、特攻隊員にヒロポン(覚醒剤)を投与。出撃の際、常軌を逸した行動をしている兵士もいた。「軍医は特攻に行かなくていいな」と言わたことも。当時いた串良基地は現在の串良平和公園。この基地から363人の特攻隊員が出撃。地下壕は今も残っている。蒲原さんが当時聞いたので思い出深いのは、海軍司令官からの「沖縄が陥落した」という旨の伝令。
1945年8月15日、太平洋戦争が終戦。航空機による特攻はその日まで続けられ、計3875人が戦死。その多くは二十歳前後の若者。元軍医の蒲原宏さんは終戦後、「元気が出る薬」として兵士らに投与していたものが覚醒剤であったことを知る。このころ国民の間で覚せい剤が流行。1951年に覚せい剤取締法が制定され、使用や所持が全面的に禁じられた。蒲原さんは整形外科医となったが、ヒロポンのことについては語らなかった。転機は80歳を過ぎたころ。自分の死が近づき、声を出し続ける意義に気づき始めたという。


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