日本の石炭産業を支えた 長崎・軍艦島を取材

2025年3月9日放送 19:54 - 20:16 テレビ東京
池上彰の昭和100年&令和の挑戦者SP 池上彰×土屋太鳳 昭和100年

日本で古くから安定的に使われてきたエネルギーである石炭が日本で知られるようになったのは室町時代。昭和の始め、石炭は産業のため、戦争をするための重要な物資としての使命を担っていた。古くから貿易拠点として栄えてきた長崎は貿易が栄えた街でもあるが、日本の石炭産業を支えてきた街でもある。その舞台となったのが通称・軍艦島。 東西に160m、南北に480m、周囲1.2kmの絶海の孤島。島の名前は端島だが、形が戦艦に似ていることから軍艦島と呼ばれるようになった。昭和49年に閉山になって以来、無人島となっている。
端島が本格的に石炭を掘り始めたのは明治23年。石炭採掘のためだけに作られた人工の島で運営していたのは三菱。端島の石炭は高品質で主に製鉄用の原料炭として使用された。採掘現場は海の底よりさらに深く地下1000m以上が作業現場となっていた。坑内の温度は約35℃、湿度90%以上だった。炭鉱は24時間稼働し不夜城と呼ばれていた。大正時代から産出量は急増し昭和16年の太平洋戦争開戦の年に最も多い41万1100トンを達成。トンネルを抜けると島民たちが昭和の最先端の暮らしを送った場所があった。しかし、閉山とともに皆移住した。それでも生活の名残は残っていた。見晴らしの良い場所に幹部職員の社宅があり、灯台の横には貯水場があり、配管はそのまま残っていた。規制区域の中にはベルトコンベアーを支えていた支柱跡も残っていた。1日に1万トン以上の石炭が積み出されていったという。作業現場から戻った作業員は皆煤けて真っ黒だったという。採掘量の増加とともに島の人口も増え、昭和35年の最盛期には5267人が暮らしていた。当時の人口密度は当時の東京の17.5倍。島内には役場やパチンコ店など東京にも引けを取らない施設が揃っていたという。炭鉱員は死と隣合わせの過酷な労働と引き換えに豊かな生活を送っていた。学校の先生の月給が50円だった時代に鉱員の月給は85円。昭和30年代全国のテレビ普及率は10%程度だったが、端島ではほぼ100%と豊かな生活だった。
次に向かったのは裏路地。エックス階段があった。昭和20年に建てられたのが65号棟。約300世帯が生活していた。1階には歯医者や美容室、屋上には幼稚園があった。巨大アパートで暮らす人たちが戦時下の日本のエネルギーを支えていた。島で育った女性は毎日親の手伝いで買い物に行ったという。端島で一番冬島民が集まる場所が端島小中学校だった。校庭は島内唯一の広場で放課後は島民みんなで利用していたという。壁には卒業記念のタイル絵が残っていた。端島にはパチンコ店やスナックなどもあり、船で長崎市内の中華街へ行く人もいた。人気だったのはちゃんぽん。会楽園は昭和2年創業の老舗。多くの工員が食べに来たという。かまぼこが味の決め手の1つだという。
端島は平成27年に世界文化遺産に登録された。日本初の鉄筋コンクリートアパートに向かった。大正5年に建てられた30号棟。多くの部屋は6畳1間とキッチンで145世帯が入居していた。30号棟は劣化が激しく保存は困難。朽ちるのを待つだけだという。中はどうなっていたのか、軍艦島デジタルミュージアムで学ぶ。軍艦島デジタルミュージアム最大の目玉は立体シアター。没入感がる体験ができる。


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