- 出演者
- 池上彰 土屋太鳳 名取裕子 坂下千里子 加藤清史郎 ウエンツ瑛士
オープニング映像。
オープニングトーク。スタジオで昭和生まれではないのは土屋さんと加藤さんの2人とのこと。
番組特製の昭和100年年表で昭和100年を60秒で抑える。昭和初期は恐慌とテロが相次ぐ暗い時代だった。やがて太平洋戦争が勃発し国民の暮らしを大きく変えた。戦後復興から高度経済成長を経て、昭和43年に日本は世界第2位の経済大国になった。昭和の後期はバブル景気に沸き、昭和64年の昭和天皇の崩御に伴い平成が始まった。この後は東日本大震災という未曽有の災害、更に令和に入ると新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るった。ここで池上さんから「昭和元年は何日間あったか?」とクイズが出題された。
昭和32年頃の東京・渋谷の写真を紹介。現在のスクランブル交差点周辺では山手線をまたいぎ、東横百貨店と当時4階建てだった玉電ビルの屋上を往復するケーブルカーが昭和26年に設置されたが、わずか2年で撤去された。
昭和時代の庶民の暮らしを紹介。日本初の電気洗濯機は昭和5年に現在の東芝である芝浦製作所から発売された「攪拌式洗濯機」と呼ばれるもの。銀行員の初任給が約70円の時代に1台370円で販売されていたという。やがて昭和30年代初めになると、日本は急激に物の豊かさを感じる時代となった。洗濯機・冷蔵庫・白黒テレビは当時「三種の神器」と言われ豊かさの象徴とされた。ただ女性たちにとっての三種の神器は、洗濯機と冷蔵庫は同じだがもう一つは電気釜だった。これらが手に入るまで主婦の生活は重労働だった。当時の洗濯機の広告には「主婦の読書時間はどうして作るか?」というキャッチコピーが掲載された。かつて暮らしていた自宅を「昭和のくらし博物館」として公開している91歳の小泉和子さんは、暮らしを最も大きく変えた家電は洗濯機だとした。また小泉さんは「東洋の奇跡と呼ばれた高度経済成長期こそ日本人が最も幸せだった時代だ」などと話した。
今につながる庶民の暮らしについてのトークを展開。ウエンツさんは「お話されてる方の目に希望が宿っている。当時を思い出すだけでも希望が感じられた」などと話した。昭和家電の三種の神器の開発が遅れた理由は提案した上司に言われた「便利なものばかり作って奥さんを怠け者にする気か」だったということ。昭和家電が作られたことで専業主婦の家事負担を減らし女性の社会進出を後押しした。
昭和時代の暮らしに魅せられ、現在もその当時の家電を使って生活しているという埼玉・東松山市の昭和43年生まれの平山雄さん、近所に住む老夫婦が引っ越すと聞き譲り受けた昭和47年建築の一軒家に暮らしている。そろえている家具や家電もすべて昭和のもので統一し、冷蔵庫や電子レンジ、または当時販売しているゆで卵機もすべて現役で動いている。平山さんにとって昭和家電の魅力は「意図しない和洋折衷」だといい、アメリカからのものを作っていても自然と日本人が持っているセンスみたいなものが出てきていたと説明した。そんな彼のリラックスタイムも昭和歌謡をレコードで聴くことで、八代亜紀のレコードを見せてくれた。昭和の暮らしをしている理由について聞かれると「今の時代は便利な機能が多い分、使い方が難しくて逆に不便。新しいものについていけない」などと答えた。
ものづくり大国ニッポンがこの国を豊かにしてきた。平成元年の世界時価総額ランキングでは10社のうち7社は日本の会社、バブル真っ盛りだったので銀行が多く入っている。ものづくりでは11位トヨタ自動車、7位日立製作所、8位が現在のパナソニックの松下電器、20位東芝だった。現在ではアメリカが殆どで3位にはサウジアラビアの石油会社サウジアラムコがランクイン、日本は27位にトヨタ自動車が入った。ランクイング上位の会社の設立は1990年代行以降に出来ている。アメリカでは勢いのある若い企業が出てきているのに日本は若い企業が出てきていない、日本はものづくりにこだわりすぎてIT化の波に乗り遅れてしまったのではないかと池上さんは話した。
昭和に生まれた家電から未来につなげるキーワードとして池上は「失敗を恐れない冒険心」を挙げ、「ソニーは昔はテープレコーダーであるとか、やがてウォークマンになったけど、今はゲーム・映画といったエンターテイメントで発展してる。常に変化し続けるということが生き残っていくということになる」とコメントした。
昭和のはじめ、政府は近代化政策の一環として国民の健康づくりを様々な側面から推し進めた。昭和3年にはラジオ体操が開始。高等女学校では体育を奨励。美容や健康にいいとしてゴルフやテニスをする人が増えた。当時の美しさの基準は「健康美」。昭和初期、銀座の通行人を対象に行われた服装調査で女性の洋装率は1%だった。日本の女性の装いを変える大きな出来事は関東大震災。当時一般的だった和装は動きにくく逃げ遅れた多くの女性が犠牲となった。これを機に和装から洋装へ時代が変わった。震災前1%だった洋装率は昭和8年には19%にまで増加した。この頃、現れたのが「モガ」と呼ばれたモダンガールたち。短髪にブルーのアイシャドウ、真っ赤な口紅。新たな時代を象徴する女性たちが街をかっ歩した。テレビのないこの時代日本の女性たちを虜にしたのが映画や雑誌で輝くハリウッド女優たち。当時人気だったのがキュートで小悪魔的なセックスシンボルと言われたクララボウ。産業化の発展に伴って増えてきた働く女性たちは健康美だけでなく、セクシーさや見られを意識した化粧を始めた。ちょうど同じ頃にパーマネントの機械が日本に初上陸。パーマネントの機械を日本で最初に輸入し技術を広めたのが美容家・メイ牛山。彼女が校長を務めていたハリウッド美容専門学校も今年100周年。メイの長女であるジェニー牛山さんにパーマネント導入の経緯を聞いた。同時期に上陸したのがミニバイブレーター、今でいう美顔器。顔のみならず頭皮の血行促進にも役立つと紹介されていた。メイ牛山は昭和12年、当時ヨーロッパでは普通に使われていたマスカラを日本で初めて販売。公務員の月給が75円の時代、マスカラは120円と高級品だった。高価なパーマネントや化粧品は誰でも使えるわけではなく、モガファッションに至ってはろくな人間ではないと揶揄される保守的な時代。そんな中、手軽に西洋のおしゃれを楽しめる髪形が生まれた。前髪を七三に分けてサイドに流し、熱したコテで大きなウェーブをつけ、耳を隠すように後ろでまとめる耳かくしと呼ばれた髪形。着物の女性にも洋装の女性にも似合うヘアだった。しかし昭和12年以降の日本は混迷の時代へ。質素で慎ましい生活が美徳とされた時代。太平洋戦争が激しくなると化粧品は不要不急の品。化粧品業界は軍需品の製造への転換を余儀なくされ、化粧品の空白期が訪れた。戦況悪化と共にパーマネントへの締め付けはますます厳しくなっていった。
暗い時代へ突入した日本。戦況悪化と共にパーマネントにも規制が厳しくなる。当時「パーマネントに火がついて みるみるうちに禿頭 禿げた頭に毛が3本 あー恥ずかしい恥ずかしい パーマネントはやめましょう」という歌詞が流行った。そんな状況でも女性たちはパーマネントを諦めなかった。電力が止まっても配給品の木炭を持ち寄り、熱した鉄製のカーラーで巻く木炭パーマを編み出した。「土管巻き」と呼ばれたこの髪形が当時大流行した。
街角に「ぜいたくは敵だ!」とあった看板に当時いたずら書きした人がいて、敵の上に「素」って入れた。すると「これをいたずら書きしたのは誰だ!そんな非国民を捕まえろ!」と警察が躍起になったと言われてる。もちろん戦争が始まってすぐに化粧ができないという状況だったかというと実はそうではないという話もある。例えば戦地に赴く男性の後を女性たちが守らなければいけないって形で女性たちが外で働くようになる。これを「銃後の守り」って言い方をした。そういう人たちが短時間でメークができるようなものというのが流行ったり、持ち運びしやすいものという形で化粧は需要があったが、それが戦況が悪化してくると、そんなことやってる場合なのかと男どもが厳しい目で見始める。当時の広告には「大空を護れ。ケバケバしい化粧は一切排撃!素肌の健康一点張りで行きましょう!」というものがあった。排撃とは相手を退けようと攻撃非難すること。
「サザエさん」は、昭和21年4月に、福岡の地元紙フクニチ新聞で連載がスタート。昭和49年まで連載され、作品は6500以上にのぼる。連載初期、サザエさんの服は4年以上、白と黒のスタイルだった。作者の長谷川町子の狙いで、読者に馴染み深いマンガになるまでは、主人公は一定のユニフォームがいいと考えたことと、終戦翌年の昭和21年に連載がスタートしたことから、地味な服装にしたという。読者から、サザエさんが可哀想すぎるなどと苦情が入り、サザエさんは毎回違う服装になり、華やかなスタイルになっていった。昭和41年には、父親の波平と別れた後、いつものスタイルからミニスカートに変身するという話もあった。昭和42年、ミニスカートの女王と呼ばれたイギリスのモデル・歌手のツイッギーが来日し、日本で一大センセーションを起こした。戦時中の抑圧された生活から解放された女性の象徴とも言うべき存在がサザエさん。
ツイッギー来日を振り返り、名取は、当時は小学生で、膝上30センチのミニスカートを履きたくても履けず、憧れていたなどと話した。ツイッギーは、小枝ちゃんという意味の愛称だという。池上は、サザエさんの作者の長谷川町子もファッションに興味があり、パリのファッションショーを観に行くほどだったなどと話した。当時、佐藤栄作総理の寛子夫人がミニスカートを履いていて話題になったという。
昭和のセットがスタジオに登場。自動マッサージ機について、池上は、銭湯などに置かれていた、背中をごりごりやってくれるなどと話した。
日本女性の化粧の変遷を紹介。メイ牛山最後の愛弟子でもある柳さんがメイクを担当。昭和10年代は、か弱く、少しセクシーなハリウッド女優たちを手本にしたメイク。アーチ形に下がった眉に、細いペンシルライナーで目を切れ長に。黒みがかった口紅を合わせる。ヘアスタイルは、横髪で巻き髪が流行したという。昭和30年代は、ハリウッド映画の黄金期で、マリリン・モンローなどの意思の強い女性が人気を博した。眉は太く、目尻を跳ね上げるキャットラインも定番だった。口紅は、終戦を機に解放された真紅。昭和40年代は、ミニスカートブームを起こしたツイッギーが初来日。人形のような目元メイクが特徴。ダブルラインという手法で、目元に影を作り、西洋顔に変身。ポイントは、大きなつけまつげ。下まつ毛を描けば、キュートな女性が完成。
池上は、「おしゃれ」ができるのは自由のおかげだとし、今でも、中東地域などでは女性の実権が抑圧され、自由にメイクできないこともある、自分らしさを発揮できる、それが許容される社会がいい社会だなどと話した。
昭和8年の希望の職業調査を紹介。現在の高校にあたる中学校男子の1位は、軍人。2位は医師、3位は商業者だった。女子の1位は、教育家。2位は商業者、3位は職業婦人だった。池上は、職業婦人について、職業を持っている婦人のことで、昭和に入り商業化が進むと、女性の働く機会が増え、タイピストやデパートの店員になる女性がいたなどと話した。去年の文系の職業ランキングでは、2位がみずほフィナンシャルグループ、3位が伊藤忠商事などとなっている。
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