NHKスペシャル Last Days 坂本龍一 最期の日
2021年1月、亡くなる2年前、坂本さんはRADIO SAKAMOTOで新年の挨拶をした。1月12日、入院。2014年に中咽頭がんが見つかるも寛解、2020年に大腸がんが見つかり肝臓などに移転した。本人が使用していた物を遺族から借り、当時過ごしていた病室を再現した。1月14日、手術は20時間に及んだ。晩年、自伝のためのインタビューを受け20時間以上の肉声が残されていた。最晩年の肉声記録では、「意思では止められなくてね、脳が勝手に作り出している、どうあらがってもだめ、次々に合併症が起こって、一生出られないのかなという気持ちになった」と語っていた。入院してからは自撮りするのが日課となった。2月9日、ビデオレターが届いた。音楽の力で復興を応援しようと東北ユースオーケストラを立ち上げた。毎年3月に定期演奏会を行うなど東日本大震災から10年以上指導を続けてきた。入院中には小さな音が鳴るものを常に傍らに置いていた。入院は2か月に及んだ。2021年3月、東京の仮住まいに退院。3月10日、P10でスケッチを2つ録音。回復して音を浴びたくなってシンセに触って好きな音を出した。タイトルを8桁の年月日として曲を作り始めた。
下村由一は坂本龍一は中学生のときにはすでに作曲の勉強をしていたという。下村さんが当時プレゼントしたバッハの教本がある。西洋古典音楽から中学生の身で一生懸命はい上がっていったのだという。2021年春、治療の合間を縫って、映画や舞台の音楽制作を再開した。新たに肺にも転移が見つかり、ほかに合併症も起こり入退室を繰り返すことになった。鈴木正文はときどき話し相手になっていた、本が無二の親友だったのではないかという。2021年10月、手術。
2022年、亡くなる1年前。変な格好をすると免疫力が上がるとの記事を読んで、踊ってみた。がんが進行し、この先の治療を見据えて念のためにかつらを作った。次第に抗がん剤治療の影響が出るようになった。2022年2月25日、ロシアがウクライナに侵攻を始めたとき、音楽だけが正気を保つ唯一の方法かもしれないと綴っていた。イリア・ボンダレンコさんが世界の演奏家とつながり、音楽で戦争に抗議する姿を見た。イリアに曲を提供し、世界に向けて発信した。2022年3月、東北ユースオーケストラの定期演奏会に参加した。一時的に体調が落ち着いたため、ニューヨークにある自宅に帰ることができた。2022年9月、東京。長年慣れ親しんだスタジオでの演奏を望んだ。坂本さんは自身の治療よりも音楽制作を優先していたという。公の場での演奏はこれが最後となった。「aqua」を演奏した。2022年12月28日、未来の自分に手紙を書いた。「2203年末まで生きる」と書かれていた。最晩年を過ごした東京の仮住まいはいまもそのままの状態で残されている。インタビューで語ったオーケストラのための曲は制作の最終段階だった。
2023年、亡くなる3か月前。YMOのメンバーだった高橋幸宏さんは同じ時期に病気になり、軽井沢の自宅で闘病を続けていた。2022年10月、軽井沢の自宅を訪ねたが高橋さんが直前で入院したため会うことができなかった。高橋さんの妻・喜代美さんは坂本さんは治療で大変なのにメッセージを書いてくれた、特殊な関係性だったかもしれないと話す。2023年1月11日、高橋幸宏70歳、逝去。2023年2月28日、亡くなる1か月前。ターミナルケアを自ら医師に依頼した。4人の子どもたちをひとりひとり部屋に呼んで別れのときを過ごした。子どもたちに別れを告げた日の日記が最後となった。3月26日、自分の健康状態を記していた。この日、長年指導してきた東北ユースオーケストラの定期演奏会が行われた。2日後、亡くなる1時間前意識を失ってもなお、ピアノを演奏するかのように指を動かしていた。3月28日、雨が降る中、息を引き取った。