- 出演者
- 加藤浩次(極楽とんぼ) 島崎和歌子 後藤真希 岩崎良美 梅澤美波(乃木坂46)
レコード大賞が始まって65回目。これまで多くの女性アイドルが出演してきた。TBSに眠る秘蔵映像と共に辿る女性アイドル史。
好きな女性アイドルランキング1位に輝いた乃木坂46。グループアイドルの全盛期の源流はAKB48やももいろクローバー。女性アイドルがより身近な存在となった。ももクロ・佐々木彩夏が憧れたアイドルはモーニング娘。
1998年にメジャーデビューしたモーニング娘は、テレビ東京「ASAYAN」からつんく♂プロデュースで誕生した。全盛期にはレギュラー番組7本、映画「ピンチランナー」まで制作された。1999年に後藤真希が加入したことでCD売り上げが飛躍。「LOVEマシーン」はおよそ165万枚。グループ初のミリオンセラーを達成した。ソロデビューシングル「愛のバカやろう」はオリコン1位を獲得した。後藤真希は当時のエピソードを交えSPEEDに憧れていたことを明かした。
SPEEDの平均年齢は13.5歳。1995年放送の「THE夜もヒッパレ」でグループ名が決まった。1995年にデビューした華原朋美のデビューのきっかけは高校生の時に吉野家でスカウトされたこと。1998年「桃の天然水」のTVCMで流行語を生んだ。「I’m proud」でレコード大賞優秀作品賞に輝き人気を不動のものにした。現在は49歳で1児の母。
1990年に「魔神英雄伝ワタル2」の主題歌でデビューした高橋由美子。プレイクのきっかけとなったドラマは「南くんの恋人」。現在は49歳で舞台を中心に活動している。90年代は歌番組が終了し“アイドル冬の時代”と呼ばれていた。島崎和歌子も同世代で「弱っちゃうんだ」で歌手デビューしている。スタジオでは劇団東京ヴォードヴィルショーを退団後の20歳の加藤浩次の写真が紹介された。
1988年のアイドル氷河期にデビューしたWink。3rdシングル「愛が止まらない」が大ヒット。翌年にはレコード大賞を受賞した。現在53歳の相田翔子は当時を振り返り、無表情だった理由について「緊張で顔が固まり、周りが勝手に評価した」などと説明。「淋しい熱帯魚」でレコ大を受賞した時は給料が12万円だったことなどを明かした。1988年には中山忍もデビューしており中山美穂の実の妹として注目を集めた。
13歳までカリフォルニアで過ごし、バイリンガルアイドルとして活躍した西田ひかる。リリースした殆どがCMソングやドラマの主題歌に起用された。2002年に貿易会社勤務の一般男性と結婚。現在は関西に住んでいて西宮市観光大使やコメンテーターなどを務めている。バースデーパーティーには毎年200人以上の芸能関係者が招待され、デビューから結婚までの13年間、毎年開催されていた。宮沢りえや安倍元首相なども参加していた。中山忍は石原プロの忘年会に参加したバブル時代のエピソードを話した。
1987年に「キミはどんとくらい」でレコ大最優秀新人賞を受賞した立花理佐。同期には酒井法子や石田ひかり、伊藤美紀などがいる。結婚を機に第一線を退いた立花理佐は現在52歳。「手打蕎麦 松永」を営む、信之さん暮らしてる。立花理佐の人気に火が付いたきっかけは「毎度おさわがせします」のヒロインに抜擢されたこと。第1・2シリーズは中山美穂が主演。第3シリーズに立花が抜擢された。
1985年に「夕やけニャンニャン」で誕生したおニャン子クラブ。素人だった高校生や大学生から11人が選ばれ会員番号が付けられた。活動期間は2年で、国生さゆりや工藤静香などがソロデビューを果たした。当時一番人気だった新田恵利の「冬のオペラグラス」はオリコン初登場1位を獲得した。現在55歳の新田恵利は、当時過激ファンに自転車のサドルを盗まれたエピソードを話した。1986年のオリコン1位に輝いた46曲中、30曲がおニャン子関連。1985年はアイドル当たり年と言われ、同期には南野陽子や浅香唯などがいる。1985年に放送開始したドラマ「スケバン刑事」。初代・麻宮サキを演じた斉藤由貴も85年組で「卒業」のヒットでトップアイドルに上り詰めた。「機動戦士Zガンダム」の主題歌でデビューした森口博子も同じ85年組。
17歳の時に「殺意のバカンス」でデビューした本田美奈子.。2ndシングル「1986年のマリリン」ではアイドルらしからぬヘソ出しルックが話題を呼んだ。24歳からはミュージカル女優として活躍。ミス・サイゴンのヒロインを約1万5千人の中から獲得した。しかしデビュー20周年を迎えようとしていた2005年1月、急性骨髄性白血病を発表。病気発覚から10か月後、38歳の若さで旅立った。
2005年1月に急性骨髄性白血病を宣告された本田美奈子.は、トレードマークでもあったロングヘアをカットし病魔と戦った。抗がん剤の副作用で次第に髪は抜け、40キロあった体重も30キロに落ち連日39度を超える熱が続いた。闘病中でも本田は歌うことを諦めず、母親の携帯にはシャワーを浴びながら歌う映像が残されている。臍帯血移植に成功し病状が改善した本田は一時退院することとなり、看護師らに感謝の歌を届けた。親交があった作曲家・井上鑑が音源を制作し、賛同した福山雅治らのビデオレターが届けられた。森口博子は本田から85年組の同窓会を提案されたエピソードを振り返る。本田は8月に白血病が再発すると再び歌える日を信じてドナーが現れるのを待ち続けた。しかし11月に38歳の若さでこの世を去った。告別式にはおよそ3700人が参列。本田の死から1年後、ドナー登録を呼びかけるチャリティーコンサートが仲間たちの手で命日に開催された。2024年4月には本田の歌が小学5年生の教科書に載ることも決まっている。
1984年にデビューした菊池桃子はレコ大新人賞を受賞。翌年には日本武道館で初のコンサートを開催した。観客動員数はビートルズを抜く2万2000人超え。同じ1984年にデビューした長山洋子は2009年に外国人と結婚し、現在は一女の母。
花の82年組では早見優、小泉今日子、中森明菜などか活躍した。当時を振り返り早見優は休みがほとんどなく、海外でのCM撮影の合間にプライベートを楽しんだことを明かした。当時のアイドル雑誌は住んでいる部屋などを掲載し、どの辺りに住んでいるのかまで掲載されていた。
1980年に「裸足の季節」でデビューした松田聖子。「青い珊瑚礁」でレコ大新人賞を獲得した。“聖子ちゃんカット”が大流行し、後輩アイドルもマネをするほどの社会現象となった。同期には西城秀樹の弟妹募集オーデションで優勝した河合奈保子などがいる。柏原芳恵は「ザ・ベストテン」の出演秘話や、ファンから3000万円をもらったエピソードなど話した。当時、大晦日の風物詩となっていたのがアイドルの大移動。レコード大賞と紅白歌合戦が大晦日に生放送していて、紅白のオープニングに間に合わせるためにパトカーが先導し、全て青信号にして移動したという逸話も残る。
1976年に「ペッパー警部」で歌手デビューしたピンク・レディー。S・O・Sからカメレオン・アーミーまでオリコンランキング通算63週1位を獲得。活動期間4年半の間で500億円を売り上げた。オーデション番組「スター誕生!」で合格したことがきっかけ。中森明菜や小泉今日子もスタ誕から生まれたアイドル。「君こそスターだ!」からは石川ひとみが誕生している。現在64歳の石川は45周年記念コンサートを行っている。1973年に「としごろ」でデビューした山口百恵は当時14歳。活動期間7年半で数々のヒット曲を生んだ。
女性アイドルの一丁目一番地14人目は麻丘めぐみ。トレードマークの姫カットが当時大流行した。「わたしの彼は左きき」の大ヒットに伴い、左ききブームが到来した。そんな麻丘と同時期に活躍していたキャンディーズは、デビューから5年後の人気絶頂期のライブ中に解散を宣言。これは事務所に言わずに勝手に宣言したと言われ、伊藤が発した「普通の女の子に戻りたい」という言葉は流行語にもなった。
女性アイドル一丁目一番地15人目は小柳ルミ子。レコ大最優秀新人賞を受賞し、紅白には18年連続出場を果たした。そんな小柳は、過去に歌番組で鎖に繋がれてターザンに助けられるという謎の演出があったと振り返った。小柳と同時期に活躍していたのは、天地真理、南沙織。小柳を加えた3人で「新3人娘」と呼ばれ人気になった。天地真理の「ドレミまりちゃん」という子ども向け自転車も大ヒットした。
女性アイドル一丁目一番地16人目は岡崎友紀。岡崎を一躍全国区にしたのは、ドラマ「おくさまは18歳」。最高視聴率33.1%を記録し、主演・主題歌を務めた岡崎は元祖国民的アイドルと呼ばれた。
1960年代は黛ジュンや奥村チヨ、小川知子らが活躍。「東芝3人娘」と呼ばれた。さらに、中尾ミエや園まり、伊東ゆかりの3人はスパーク3人娘と呼ばれ、東芝3人娘より前に活躍するなど、当時は3人娘が流行していた。中尾ミエは、自分より前に活躍していた女子アイドルについてザ・ピーナッツを挙げた。当時は歌手が引退コンサートを行う前例がなかったが、ザ・ピーナッツはすでに決まっていたコンサートを日本初の引退コンサートとして開催したという。中尾は、さらに初代の3人娘として雪村いづみ、江利チエミ、美空ひばりを挙げた。中尾は、それ以前は知らないという。