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オープニング映像。
広島・因島出身のロックバンド・ポルノグラフィティ。約半年かけてきた歌の製作が大詰めを迎えている。それは次世代へ被爆を伝えるNHK広島「被爆80年プロジェクト」のテーマソング「言伝 ―ことづて―」。当初、被爆というテーマを扱う不安を抱えていた。自分たちは何を伝える事ができるのか。広島の人たちに出会い模索した。ポルノグラフィティは何を伝えようとしたのか。半年にわたり密着した記録。
去年デビュー25周年をむかえたポルノグラフィティ。今回の歌づくりがスタートしたのは去年7月。被爆というテーマを扱うことに2人は大きな不安を抱えていた。2人は被爆体験を伝える人を訪ねることにあした。広島市立基町高等学校にやってきた。この高校では被爆者の証言を絵で表現する活動に取り組んできた。受け取った思いを伝えようとすることで考え方は変わることを高校生たちが教えてくれた。次に向かったのは被爆ピアノ資料館。調律師の矢川光則さんは被爆したピアノを修復し全国を回ってその音色を届ける活動をしている。爆心地から1.8キロで被爆した通称ミサコのピアノ、矢川さんが約半数の鍵盤を修復をし、中からは無数のガラスの破片が出てきた。最後に出会ったのは8歳のときに爆心地から23.4キロの地点で被爆した小倉桂子さん。通訳として広島を訪れる外国人をガイドしてきた小倉さんは87歳の今も英語で被爆体験を世界に発信している。小倉さんは被爆を伝えることの覚悟を2人に語ってくれた。
ポルノグラフィティはこの年デビュ25周年。地元・因島を舞台に野外ライブや大規模なイベントを開催。ふるさとへ恩返しの気持ちを込めた2人は夏を駆け抜けた。
2024年10月、歌づくりに進展。ギターの新藤さんが作詞に取り掛かっていた。今回デビュー以来、初めてメロディーより先に歌詞を書く詩先に挑戦。メッセージを明確にするため。広島の人たちの思いをどう歌詞にするか。被爆というテーマを親しみやすいポップソングに仕上げる。新藤さんはそのためのモチーフを生み出していた。何もかもが破壊された8月6日。わずか3日後、生き延びた人たちが路面電車の一部区間を復旧。このとき走った電車は後に一番電車と呼ばれた。新藤さんが描いた第一稿は作曲をする岡野さんの元へ届けられた。ポルノグラフィティとしてどんな歌を届けるべきか掴んだ2人。岡野さんは作曲に取り掛かった。
2024年11月、進藤さんは一番電車についてもっと知りたいと再び広島を訪れた。あの日、一番電車に乗っていたという人がいる。路面電車の車掌をしていた笹口さん。広島市民の生活を支えていた路面電車。戦況の悪化とともに運転手や車掌が不足していた。そこで補おうと作られたのが広島電鉄家政女学校。笹口さんは14歳で入学し、車掌になった。あの日、笹口さんは被爆地から2kmで被爆、がれきの下敷きに。3日後の早朝、一番電車が出発する己斐駅へ向かった。日々の営みを取り戻そうとする力強さが広島の人々にあった。この後、進藤さんは歌詞を書き上げた。
2025年1月、歌作りは最終段階に入った。作曲をした岡野さん。心に響くメロディーを探して曲調の異なるデモ音源をいくつも用意した。新藤さんは一番電車の取材を終えて歌詞を加えていた。大切なメッセージを込めた大サビにコーラスを加えようという提案。気になったのは歌詞の中でも一番電車が走った状況を描いた部分。1時間悩み続けた。当時の状況をより想像させる歌詞はどちらなのか。半年に及んだテーマソングの作成は終わった。
広島と長崎に原爆が投下されて、今年で80年。被爆ピアノの音色を伝える矢川光則さんは広島市内の慰霊碑で演奏会を開催している。世界へ被爆体験を発信する小倉桂子さんは今も世界をめぐり被爆の悲惨さを訴え続けている。一番電車の車掌をした笹口里子さんは今年4月94歳で失くなった。新藤さんへの証言が最後となった。
エンディング映像。