- 出演者
- 池上彰 加藤浩次 宮司愛海 里見浩太朗 柴田英嗣(アンタッチャブル) 山口もえ 山崎怜奈 猪狩蒼弥(KEY TO LIT)
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広島と長崎に原爆が投下されて80年、当時の写真は戦争の記憶が薄らいだ今でも人の心を揺さぶっている。2025年6月、広島市で出会ったのはがれきの下で孤児となり、数奇な運命を辿ったひとりの男性だった。この日高校生たちに被爆体験を語っていた友田典弘さんは当時爆心地からわずか460mのところにある小学校におり、地下室にいたことで生き延びた3人の児童のうちのひとりとなった。校庭にいた弟は即死だったという。その後がれきの街をさまよい母を捜したものの見つからず、孤児となった友田さんは家に下宿していた在日朝鮮人のキムさんと出会い、共にソウルへと渡ったものの当時日本人が受け入れてもらうことは難しく、流転の人生が始まった。キムさんの家を飛び出した友田さんは知り合いのいない街でチョッパリと罵られながら路上生活を強いられた。ところが橋の袂で寝ていたある夜、朝鮮戦争が始まるという不運に見舞われ、銃弾が飛び交う中を寄る辺なく彷徨った。その後はソウルのパン店に住み込みで働きなんとか生き延びたものの、当時は日韓に国交がなかったため帰国は難しく、日本語すら忘れていたという。ようやく日本に帰れたのは海をわたってから15年後のことだった。現在は大阪で一人暮らしをしているそうだが、6年前には胃がんが判明。診察した医師ががんと被爆の関連性を指摘したことで83歳にして原爆症に認定された。
今から7年前、ワシントン州リッチランドに留学した当時高校生の古賀野々華さんは図らずも戦争の記憶と向き合うこととなった。この町では道路沿いの看板の多くに原子力を意味するATOMICという言葉が使われている。この町は核兵器開発を推し進めたマンハッタン計画のもと、原子爆弾「ファットマン」の製造に大きく関わった町だった。また高校のシンボルマークにきのこ雲が使われていたり、校内の壁には爆撃機が描かれるなど古賀さんを驚かせた。古賀さんは留学当初は新生活に慣れることに必死だったことなどから流して生活し、次第にきのこ雲のマークにも違和感を覚えなくなっていったそう。しかしある日、きのこ雲のパーカーを着ていた古賀さんにアメリカ人教師のショーン・マーフィーさんがなぜそんな服を着られるのかと尋ね、同時にそれが長崎に落とされた原爆のものだと教えたそう。古賀さんは原爆について知っているにも関わらず何も考えずに過ごしてきたことを恥じ、その日を境に原爆の歴史を学び始めたそう。そして帰国1か月前に原爆への思いを全校生徒にビデオメッセージとして伝えることを決心。現在でも多くの人達に再生されているという。
スタジオでは、原爆が人の命を救ったと信じ込んでいる人もいる町で、ましてや学校のシンボルマークにきのこ雲を採用しているような学校で古賀さんのスピーチは勇気がある発言だったと思うなどと話された。その後に終戦を迎えたが、当時流れた玉音放送を里見浩太朗は実際に聞いていたという。この玉音放送が流れる前には終戦に反対する一部の軍部の人たちが皇居を占拠し、クーデターを起こしたそう。池上は戦争を始めるのは簡単だが終わらせるのは非常に難しいことがわかるなどと話した。
美輪明宏の根本にあるのは幼少期に長崎で体験した原爆の記憶で、終戦を機に常識が反転したため一切信じなくなり、世の真理を探す人生の旅が始まったとのこと。
敗戦から19年、日本人が平和のありがたさを噛み締めたのが東京五輪の開会式が行われた日だった。聖火ランナーの最終ランナーを任されたのが原爆投下の3時間後にヒロシマで生まれた坂井義則さんだった。また各国の選手たちが手をつなぎ混ざり合う閉会式の案を出したのが大会組織委員会の松沢一鶴参事。委員会でともに働いたという吹浦忠正さんは松沢の根底には戦争時代への後悔があったなどと話した。
戦後80年のメッセージは猪狩蒼弥は「知らないと同じ事を繰り返してしまうのは必然」、柴田英嗣は「戦争は人の考え方をゆがめてしまう」、山口もえは「戦争は世代を超えて人を苦しめる」、山崎怜奈は「過去から学んで未来を創っていく」、里見浩太朗は「戦争の悲しみを捨てよう」、加藤浩次は「人間は間違えるという思いに立ち返る」、宮司愛海は「じっくり対話する力を養う」、池上彰は「戦後と言い続けられる世界にしていく」。