2025年8月8日放送 18:30 - 21:58 フジテレビ

ザ!戦後80年の映像遺産SP 池上彰×加藤浩次の運命の転換点

出演者
池上彰 加藤浩次 宮司愛海 里見浩太朗 柴田英嗣(アンタッチャブル) 山口もえ 山崎怜奈 猪狩蒼弥(KEY TO LIT) 
(ザ!戦後80年の映像遺産SP 池上彰×加藤浩次の運命の転換点)
ワイドショーが伝え続けた戦争の記憶 女性司会者の多くが”戦争体験者”だった

1968年~1988年放送「3時のあなた」で14年にわたって司会を務めた森光子さんを始め、そうそうたる女性司会者の多くが戦争経験者だった。初代司会者・高峰三枝子は戦地への慰問に派遣された一人。当時慰問団には芸能人や文化人が選ばれ戦地につかの間の安らぎを届けた。

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ワイドショーが伝え続けた戦争の記憶 俳優らが軍服姿…スタジオで体験を語る

1969年12月8日放送の3時のあなたでは、戦争を経験した著名人たちが軍服姿で当時の記憶を語った。俳優・池部良は戦地に赴く際に自らを捨て無になろうとした覚悟を語った。

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ワイドショーが伝え続けた戦争の記憶 田中角栄が思わず”言葉 詰まらせた瞬間”

1984年9月3日~4日放送の3時のあなたには田中角栄が出演。二等兵として中国の戦地に赴いた田中はクループ性肺炎によって帰ってきたが、生きて帰るつもりはなかったため悔しかったと話した。田中が言葉を詰まらせたのは戦時中に命を落とした二人の妹の記憶だった。田中はよく「戦争を知らない世代が政治の中枢になったときはとても危ない」と語っていた。

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ワイドショーが伝え続けた戦争の記憶 植木等の父親が語った”相手を殺すな”

植木等は子供の頃、住職の父から「戦争は集団殺人なんだからそれの片棒を担ぎに行くんだから相手もなるべく殺さないようにしろ」と教わっていたという。

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ワイドショーが伝え続けた戦争の記憶 戦地でリポート 山口淑子の「激動の人生」

3時のあなたの司会者・山口淑子は当時戦争の真っ只中にあったベトナムに自ら出向いてレポートした。取材中にとりわけ気にかけていたのは罪にない子どもたち。山口自身も中国で青春時代を過ごし戦争によって人生を引き裂かれた人だった。中国名は李香蘭。1932年日本は国際社会が批判する中、満州国を建国。スローガンは五族協和と王道楽土。満州国の運営に携わっていたのは元首相・岸信介。民族の融和をはかるため日本が利用したのは文化・芸術だった。1937年満州映画協会を設立し、看板女優としてデビューしたのが李香蘭だった。その人気は日本本土でも過熱した。一方中国では日本に対しての抗日運動が巻き起こっていた。満州国について岸信介はインタビューで「当時の状況から言ったら侵略」と証言している。満州国建国の翌年に開かれた国際連盟総会で各国の批判が渦巻く中、日本は国際連盟脱退を表明。その8年後、日本は真珠湾を攻撃し太平洋戦争に踏み切った。

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岸信介元首相が「証言」…満州国建国は「侵略」/池上彰解説!運命の転換点…国際連盟脱退/池上彰解説!国際連盟脱退にまさかの反応

岸信介元首相は満州国建国を侵略だと認めている。当時、各国が多くの植民地を獲得していた。満州国建国をきっかけに日本は国際連盟を脱退。満州国から撤退すべきという決議が賛成42、反対1(日本)となった要因は松岡洋右首席全権の演説内容にもあったといわれている。原稿なしで1時間20分に及び大演説を行ったが「十字架」などのワードを使用し、特にキリスト教国家から猛反対を受けた。松岡氏の息子によると松岡氏は帰国後、皇居の前で土下座をしたという。松岡氏は帰国後に袋叩きを覚悟していたが、国民は英雄扱いだったという。

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熱狂 白いかっぽう着の国防婦人会 誕生 女性たちがのめり込んだ本当の理由とは

多くの若者が戦場へと向かった背景には国民の熱狂があった。1932年大日本国防婦人会が発足し会員数は約1000万人に上った。東海林のり子は母が国防婦人会の活動に参加する姿を鮮明に覚えていた。女性たちをさらに戦争へと駆り立てるアニメも制作された。中には国防婦人会の活動に参加しない人を非国民扱いする人までいた。

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熱狂 ナチス・ドイツの軍人にサイン求め 母親も子供も政治家も…戦争へ一直線

1938年、日本との関係を深めるために来日したドイツ軍の中にはナチス・ドイツ青少年組織ヒトラーユーゲントの姿もあった。そして国民生活も戦争ムード一色に包まれていった。

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国民が熱狂!戦争にのめり込む母親の姿/国民が熱狂!子供用ポスターも戦争色に/戦争の足音…食糧不足が生んだ知恵も/どんな味?戦時中の「代用食」をスタジオで

国防婦人会に参加しないと非国民と言われる同調圧力があった。当時は子供用ポスターなども戦争色に染まっていた。戦前、都会では洋食などが普及しつつあった食生活も戦争の足跡が近づくにつれ変化が現れる。食糧不足で様々な代用食が生まれた。米の節約が叫ばれた1940年ごろに国策栄養食製器が登場し代用食作りに使用された。

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叫び ”狂気の戦場”ペリリュー島の真実 人間がつくり出した地獄で人間の心失う

激戦地のパラオ・ペリリュー島で最後まで戦い生還した日本兵はわずか34人。元日本兵の土田喜代一さんは命の重さを感じなくなっていたという。1944年11月、アメリカ軍が島を制圧し組織的戦闘が終結。多くの日本兵が投降し捕虜となった。土田さんらは洞窟に潜伏し2年半も抵抗を続けた。終戦から2年後、意を決して洞窟から飛び出し投降し奇跡的に生還。土田さんはあの日助けを求めた自分に銃口を向けなかったアメリカ兵に会いたいと願い続けていた。終戦から70年の2015年、土田さんに会うため元アメリカ兵のサルバドール・グリハルバさんが来日。再会を果たした土田さんとサルバドールさんはお互いに命を救ってくれてありがとうと感謝を伝えあった。この3年後、土田さんは安らかに眠った。

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「白旗の少女」老夫婦との出会いと感謝 「恩返しができなかった」今も残る後悔

沖縄戦では家族と離れ離れになった少女が白旗のおかげで命を救われた。当時7歳だった比嘉富子さん。白旗を作ってくれたのは見知らぬ老夫婦だったという。洞窟で出会った老夫婦はおじいさんは手足を失っていておばあさんは目が見えない状態だった。おじいさんのふんどしを使って白旗を作ってくれたという。洞窟での出来事を語り継ぐため比嘉さんは本にした。しかし老夫婦にもう一度会うことは叶わずそれが今も心残りとなっている。

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苦悩 戦争トラウマと”消えない悪夢” 極秘とされた資料に残る”兵士の症状”

戦争中、精神障害を発症した兵士は国府台陸軍病院に集められた。兵士たち8002人の病床日誌が今も保管されている。そこには発症の原因となった体験がありのままに記されている。沖縄戦で心に傷を負った当時少年兵だった男性の話を聞くことができた。瑞慶山良光さんは16歳で護郷隊というゲリラ部隊に召集され自爆作戦を命じられた。その後命令が下る前に作戦が中止となり命拾いをしたものの戦後にPTSDを発症。すると家族は幻覚などに苦しむ瑞慶山さんを小部屋に閉じ込めたという。瑞慶山さんがいた護郷隊は秘密裏に活動する部隊だったため戦後の補償は今も受けられていない。

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潜伏 終戦知らず…27年もジャングル生活 「恥ずかしながら」横井庄一さん 後悔の涙も

1972年2月、残留日本兵の横井庄一さんが帰国。戦争の集結を知らぬままグアム島のジャングルに潜伏し、戦後27年経ってようやく島民に発見されたという。多くの人が帰国を喜びをもって迎えたが、何より人々が驚いたのはジャングルでの厳しい潜伏生活を生き抜いた横井さんのたくましさで、わらじや籠などのほか発見当時着ていた服も島に生えた木の繊維を使って自ら編んだものだった。ジャングルの中で生きる支えとしたのは日本に残した母への思いだったが、母は14年前に亡くなっており親子の再会は叶わなかった。

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潜伏 ”最後の日本兵”小野田寛郎さんの怒り 「上官の命令がない限り 下山は許されない」

1972年10月、フィリピンのジャングルでも一人の残留日本兵の大捜索が行われていた。当時そこで残留日本兵が銃撃戦を行い、一人が逃亡したとの報道が流れていたためである。小野田寛郎少尉は陸軍中野学校で厳しい訓練を受けた兵士だった。家族が呼びかけても中々姿を現さず、ついには高齢の父親までもが島に足を運び説得にあたった。小野田さんが姿を現したのは2年後で、元上官から任務の解除命令を受けてようやく投稿し生還した。1974年3月、30年ぶりに帰国した小野田さんは英雄のようにもてはやされた。しかし小野田さんの目に映る日本は大きく様変わりしており、高度経済成長を遂げ豊かさを謳歌する人々はアメリカの文化も喜んで受け入れていた。違和感を募らせた小野田さんだったが、兵士唯一の名誉である勲位を間違われていたことでないがしろにされていると感じ、こんな国で死にたくないとブラジルへ移住。帰国からわずか1年で日本を去った。

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終戦知らず数十年…ジャングルで潜伏生活/ジャングルで潜伏生活…何を食べていた?

戦後に多くの残留日本兵があちこちに残っていたという事実があるそうだが、スタジオでは小野田さんの場合には約30年の潜伏生活とその結果としての日本の姿のギャップを埋められないのではないかなどと話された。また横井さんがジャングルで生き物を捕獲し、どのように調理して食べていたのか取材した記事を紹介。劣勢になった日本軍の戦地では食料が不足していて、戦没者約230万人のうち4~6割ほどは餓死や病死だったそう。

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苦悩 親から子へ連鎖する戦争トラウマ 「お父ちゃんと死のう」今も終わらぬ戦争

大阪市北区で戦地から帰ってきた兵士を受け入れた家族らによる集会が開かれた。藤岡美千代さんは戦地から帰ってきた父親が亡くなったとき、喜びや解放感などの感情が湧き上がってきたという。藤岡さんの父親は3年間のシベリア抑留を経て復員。藤岡さんが物心つくころには酒に溺れ、暴力が絶えなかったという。戦後80年経った今も父親の写真は見ることが出来ず、ハンカチがかけられたままとなっている。

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真実 綿密に計画されていた東京大空襲 ”日本村”で実験繰り返し…下町を焦土に

1945年3月、一夜にして約10万人の命が奪われた東京大空襲が発生。アメリカ軍はユタ州にある通称日本村と呼ばれた軍事施設でリハーサルを行うなど、2年前から綿密な計画を立てていた。実験により木造家屋が燃えやすい燃料を使った新型焼夷弾も開発し、200以上の都市や街に無数の焼夷弾が投下され、全国で40万以上の命が失われた。

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富士山へ…里見浩太朗が見た!米軍爆撃機

アメリカ軍は東京を空襲する際には富士山を目標にしたと言われていて、里見浩太朗は当時米軍機が爆弾を落として帰っていくところまで見ていたなどと話した。

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真実 綿密に計画されていた東京大空襲 ターゲットから外されていた 病院の存在

東京大空襲のとき、ターゲットから聖路加国際病院は外されていたが、これは明治時代にアメリカ人が創設したものだったためだそう。そこで被災者の治療にあたり、惨状を目の当たりにした日本人医師がいた。105歳で亡くなるまで生涯現役を貫いた日野原重明医師はテレビ番組に出演した際に国が市井の人々を欺いていたなどと話した。

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秘話 元米軍パイロットを祖父に持つ女性 「日本を爆撃したときの思いを聞きたい」

日本の劣勢が明らかな中、米軍は空からの無差別攻撃を開始。一般の乗客を運ぶ列車が標的となり、時には浜辺をただ歩いている人まで執拗に狙われた。なぜそうした攻撃が行われたのか、その理由を知ろうと10年前に当時大学生だったイエリン晴羅さんがおじいさんに直接話を聞いた。アメリカ人と日本人の両親を持つ晴羅さん。父方の祖父は無差別爆撃を行った米軍のパイロットだった。無差別攻撃の映像を見ながら晴羅さんが国を守るためだったのか憎しみからだったのかと尋ねると、ジェリーさんは当時敵が人間だなどと考えたことすらないなどと話した。また同じパイロットだった祖父の親友が日本軍に撃墜されていたという事実を書類を見せながら話したとき、祖父の感情が溢れ出した。その祖父も2017年に亡くなった。あれから10年、イエリン晴羅さんは当時の祖父との時間を振り返り、記憶は語られなければ忘れ去られてしまうので次の世代にいかにリアリティを持って引き継いでいくかを改めて考えているなどと話した。

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