- 出演者
- 岡田准一 宮崎哲弥 ビビる大木 梨衣名
2021年6月に上野動物園で双子のジャイアントパンダ、シャオシャオとレイレイは新たなパンダブームを巻き起こした。1972年にカンカンとランランが初めて来日し、黒柳徹子も駆けつけた。上野動物園では2008年に生き残っていたリンリンの死によりパンダ不在となり、パンダをさらに招くか論争になった。2011年に3年ぶりにパンダが東京にやってきて、日本の動物園には絶滅の恐れがあるパンダの繁殖を実現させるミッションが課せられた。
オープニング映像。
1960年代、多くの日本人にとってジャイアントパンダは未知の動物だった。山奥に生息するため世界に知られたのも約150年前。1869年に中国を訪れたフランス人宣教師がパンダを知った。毛皮と骨を送ると剥製が作られ、不思議な姿が話題になった。1937年にアメリカで生きたパンダが公開されると大人気に。黒柳徹子は、アメリカにいた報道カメラマンの伯父にパンダの人形を買ってもらったと話した。日本では日中戦争のときに中国によるパンダ外交が報じられたが、掲載された写真はレッサーパンダ。姿については中国の記事の又聞きだった。その後パンダが記事に掲載されるのは高度経済成長真っ只中の1966年。まだらグマを呼ばれ、中国と交渉して上野に入れたいと書かれていた。当時中国以外で飼育されていたのはモスクワとロンドンだけ。海外渡航者が人口の1%もいない時代で、 日本人がパンダを知る機会は少なかった。黒柳は1968年にロンドンにパンダを見に行った。1971年に昭和天皇がロンドン動物園で見たパンダがニュースで流れ、日本中がパンダに憧れた。美濃部亮吉、土井たか子が相次いで中国を訪問し、パンダを譲ってほしいと交渉した。1972年2月にはニクソン大統領が中国を訪問し、友好の証として中国はアメリカにパンダを贈った。ただ日本は中国に対して非友好的な政府だとみなされていたため、日本の要請は断られた。しかし田中角栄が総理大臣になると中国と国交を結んだことでパンダが2頭来日することが決まった。そして1972年10月28日にカンカンとランランが来日した。
宮崎は、手首の骨が発達した第6の指によって物を掴むことができると話した。山東省出身の梨衣名は、パンダの名前が2文字を重ねているのは中国語で「〇〇ちゃん」という愛称、昭和天皇を笑顔にさせたパンダの影響は大きかったと話した。宮崎は、日中国交正常化への雰囲気がパンダ人気に拍車をかけたと話した。大木は、インフルエンサーとして黒柳徹子の存在が大きいと話した。
1990年代になるとアドベンチャーワールドに2頭、2000年には王子動物園にも2頭のパンダがやってきた。上野動物園にパンダが来て2年目の1974年、入園者はそれまでの2倍以上とパンダブームは冷めることがなかった。ランランとカンカンが息を引き取ったあとも、上野動物園には次々と中国からパンダがやってきた。その背景には、日本が世界第2位の経済大国になったこと、中国に行っていた経済援助と技術協力があると専門家は指摘した。2000年代に入るとトントンが息を引き取り、1頭となったリンリンを3回メキシコに連れていき交配を試みたが失敗した。パンダ人気にも翳りが現れ、入園者は激減。2008年に上野動物園のリンリンが息を引き取り、東京からパンダがいなくなった。しかし当時は以前と状況が変わっていた。1984年にワシントン条約によって譲渡などの移動が原則禁止されたが、中国は種の保存のため外国に貸し出すようになっていた。借り受けの対価はつがいで年間1億円だった。2000年代は日中関係は最悪の状態になっており、パンダのために年間1億円を税金から出すことに東京都には反対の意見が相次いだ。上野観光連盟の会長だった二木さんは石原知事にパンダ再来の要望書を出したが、都民の声の後ろ盾が欲しいという話をされた。野観光連盟が中心となりパンダの招致キャンペーンを展開し、パンダバッジを作成して子どもたちに配った。2010年に石原知事はパンダを招致することを発表し、年間100万ドルは95万ドルに引き下げたことも公表した。2011年2月にリーリーとシンシンが来日し、3月には東日本大震災が起きた。一般公開が始まると被災地の子どもたちが上野動物園に招待され、パンダと対面した。この年の上野動物園の入園者数は200万人以上増加した。
梨衣名は、上野=パンダになって近すぎて素晴らしさに気づかなかった、招致キャンペーンによって地元の人たちの熱意が再び高まったと話した。大木は、パンダ招致にどっちでもいい派が賛成派の活動になびいたのではと話した。宮崎は、1億円は東京都の税制からすると大した事ない、日中関係というのが大きかった、パンダがいかに政治的に大きかったかと話した。
野生のパンダは長い間絶滅の危機が心配されており、世界各地で繁殖のためのプロジェクトが進められてきた。アドベンチャーワールドは困難だった自然交配によって16頭の子どもを誕生させ、世界的に注目された。アドベンチャーワールドには1994年にオスの永明とメスの蓉浜が来日した。2頭は繁殖と共同研究のために貸し出されたパンダだった。当時動物園には野生動物を保全する拠点としての役割が求められるようになっていた。白浜では1980年頃からチーターやペンギンなどの繁殖に実績があったため、パンダの貸し出しが実現した。パンダの人工授精はメスの体に負担をかける上に子育てを放棄するリスクが高まるもので、自然交配が望ましかった。ただそれまで自然交配は日本での成功例はなかった。2001年にやってきた2代目のメス梅梅と永明の自然交配が成功し、オスの赤ちゃんが生まれた。その後も自然交配で双子を出産した。野生のパンダは双子が生まれると元気な方だけ育てて片方は死なせてしまうといい、世界の動物園ではこれまで双子の片方を取り上げてからすり替えることで交互に育てさせてきた。しかし梅梅は2頭とも育てようとしていた。飼育日報ではパンダの行動を分刻みで24時間365日記し続けてきた。また家族が増えるのに伴いできるだけ自然に近い状態で生きられるよう、パンダ舎を新設した。
梨衣名は、メスの空気が読める永明だったから繁殖に成功したと話した。大木は、日本人の勤勉さがパンダの繁殖に繋がったと話した。宮崎は、野生動物の種の保存は元々動物園の設立目的にあったが途中から見失われた、その後種の保存が見直されパンダ繁殖の重要性が高まったと話した。
シンシンは2017年に自然交配でシャンシャンを産んだ。2021年には上野動物園で初めての双子を出産した。これまで出産には中国人研究員が立ち会っていたがコロナ禍で来日できなかったため、経験豊富なアドベンチャーワールドのスタッフにノウハウを教えてもらった。上野動物園の双子パンダの誕生で、経済効果は年間300億円以上と言われる。国内でパンダがいるのは上野、白浜町、神戸の動物園。1つの国で複数の動物園にパンダがいるのは中国以外では日本とアメリカだけ。
宮崎は、紆余曲折の歴史とともにパンダはあった、政治の影響は避けれないけれども人々を癒やしたり元気づけたりしてくれれば良いと話した。岡田は、過去に政治的な影響があったがこれからは種の保存や保護が課題と話した。
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