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オープニング映像。
今回はマーシャル諸島で日記を残し亡くなった父を探す佐藤さんを特集。宮城県亘理町に住む佐藤勉さん。その父の冨五郎さんは、37歳でマーシャル諸島に出征し2年後に死亡した。マーシャル諸島では、今も戦没者の8割の遺骨が現地に眠る。勉さんはこれまで現地に複数回訪れているが、胸の奥にある思いは消えないという。今年84歳になったが、体力的にこれが最後の慰霊の旅。飛行機を乗り継いで、4つの島を経由する14時間のフライト。4500キロ離れた南太平洋に浮かぶマーシャル諸島は、その環礁の一つがウオッゼ島。サンゴ礁と砂でできた小さな島には、およそ1000人が暮らしている。農業に適さない土壌のために椰子の実を加工して生計をたてている。日本の移民統治領だった島にはその名残がある。穏やかな暮らしのそばには戦争の爪痕があり、旧日本軍の戦跡が残る。
太平洋戦争中には、十字架上の滑走路が整備され、日本兵3500人が駐留。その滑走路近くにある航空隊の指揮所は、いまは島民の住宅として使用されているウオッゼ島最高齢のチレさん。冨五郎さんが島に到着したのは1943年8月。父も口にしたであろう、島の食べ物があり、勉さんもいただいた。冨五郎さんに戦火が迫った1944年2月は重要拠点のクェゼリン島が陥落。冨五郎さんがいたウオッゼ島は孤立し、補給が寸断された。そのために食べるものがなく、減食を繰り返し、動物を食べていた。終戦まで補給は一度もなく、冨五郎さんは栄養失調に陥った。脱走者や食料泥棒、兵士たちは極限状態に。終戦直後にアメリカ軍がウオッゼ島で撮影した写真にはやせ細った日本兵の姿が。マーシャル諸島でが餓死を含め2万人の兵士が死亡した。
戦友が日記に添えた手紙には冨五郎さんは警備隊の本部近くに埋葬されたと記載された。警備隊本部の飛行場の南部でその場所を目指す。佐藤さんはさらに探す場所に島の行き来として使用された桟橋へ。さらに航空廠の跡地もあった。その先に警備隊本部があった場所が。冨五郎さんは日記に最後を綴り、体は限界を迎え、乱れた字でその文が遺書とその日付を書いた。翌日に冨五郎さんは亡くなった。
エンディング映像。