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オープニング映像。
画家の千田豊実さんは祖父の絵筆を使って絵を描いている。その祖父の川田一一さんは頭の中にあるシベリア抑留の記憶を思い出しながら絵を描いていた。極寒の地で日本人兵士が抑留され過酷な労働を強いられた。帰国後、その経験を誰にも語らずに70歳になってから絵筆を握った。千田さんはその様子を隣でみていたという。人の命を奪うだけでなく、生きて帰った人を苦しめる。その既往を次の世代につなぐ人たちを負った。10年ぶりに開かれた祖父と孫の2人展は、生前に川田一一さんが描いたのはシベリアでの生活だった。暗い炭鉱などでの過酷な労働に少ない食糧、マイナス30度を下回る厳しい寒さ。川田さんは旧満州で農業技師として働き1945年に陸軍招集され20歳で終戦を迎えた。ソ連は国力回復のための労働力として、終戦時に満州にいた元日本兵や民間人の57万5000人を各地の収容所に連行し、川田さんは現在のカザフスタンにあった収容所に送られた。飢えと寒さと重労働の三重苦で57万5000人のうち5万5000人が亡くなったとされる。一日2回の食事はマッチ箱ほどの大きさの黒パンに具がほとんどないスープ。北海道出身の戦友は故郷の小豆が食べたいと願いながら亡くなったという。生きて帰ってこいと言う母親が夢に何度も出てきたという川田さん。1948年12月にナホトカ港から引き揚げ船にのり、京都の舞鶴港に到着した。
千田さんは頼りにしたのはシベリア抑留での証言や体験を見聞きすること。そして祖父が残した言葉。一方で課題も抱えている。千田さんの友人の四国学院大学の教授の仙石さんは川田さんと千田さんをモチーフにした演劇を大学生ラと一緒に制作することに。 劇団を主催する仙石さんは、精神障害のある人の実体験を戯曲化し、就労支援施設の利用者らと交えて公演。演じる学生や劇団員の多くは、祖父母も戦争を経験していない。12月の公演にむけて、1年半の制作期間をかけ、シベリア抑留者の遺族や語り部らの座談会を4回企画した。脚本執筆にあたり、仙石さんが注目したのは、川田さんが自身の経験を語れなかった時間。
エンディング映像。
