2023年8月14日放送 1:13 - 2:13 TBS

ドキュメンタリー「解放区」
つなぐ、つながる 毒ガス島の記憶

出演者
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(オープニング)
オープニング

オープニング映像。

(ドキュメンタリー「解放区」)
つなぐ、つながる 毒ガス島の記憶

広島県竹原市にある大久野島は瀬戸内海に浮かぶ小さな島。無人の島にはいつからか野生のウサギが棲み着くようになった。今は500匹のウサギが生息する「癒やしの島」として知られ多くの観光客が訪れている。かつて「地図から消された島」と呼ばれていた大久野島では秘密裏に毒ガス研究が行われていた。第一次世界大戦で初めて使用された毒ガス兵器は非人道的な兵器として国際法で使用が禁止されていたが日本は研究を進め1929年に毒ガス工場を開所。周囲を瀬戸内海に囲まれた大久野島は毒ガスを隠れて加工するのに好都合の島だった。大久野島に学徒動員された女学生たちは島で毒ガスを作っていることを知らされず軍需工場で風船爆弾の糊付け作業などに従事した。戦況が悪化すると女学生たちも重いドラム缶を運ぶような危険な作業に駆り出されたが中に毒ガスが入っているなどとは知る由もなかった。

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大久野島竹原市(広島)長浦毒ガス貯蔵庫跡
(告知)
シーナ&ロケッツ 鮎川誠 ~ロックと家族の絆~

8月25日公開の映画「シーナ&ロケッツ 鮎川誠 ~ロックと家族の絆~」の告知。

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シーナ&ロケッツ 鮎川誠 ~ロックと家族の絆~
(ドキュメンタリー「解放区」)
つなぐ、つながる 毒ガス島の記憶

戦時中、学徒動員され大久野島の軍需工場で働いていた岡本須磨子さんは島に向かう船の上で広島へ原爆が投下された時の光を見た。島で毒ガスに直接触れることはなかった岡本さんだったが、戦後も長く咳が続く症状に悩まされてきたという。当時島で働いていた人の多くが戦後、体に異変をきたしていき、毒ガス製造に関わって健康被害が認定された人は6119人にのぼった。うち5000人以上がすでに亡くなっている。

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太平洋戦争が終わった1945年、大久野島には3000を超える毒ガスが残されていたとされている。毒ガスはアメリカ軍の指揮で土佐沖の海の底に沈められた。工場も火炎放射器で焼かれ解体された。毒ガスを製造していた藤本安馬さんは15歳の時島に渡り寄宿舎生活を送りながら養成工としてガスの製造方法を学んだ。工場に配属された藤本さんは「死の露」といわれる毒ガス「ルイサイト」を製造。ほぼ手作業で行い真夏には防毒マスクを取って作業を続けた。当時軍国主義に染まっていた藤本さんは毒ガスの製造に何の疑問も持たなかったという。

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(告知)
シーナ&ロケッツ 鮎川誠 ~ロックと家族の絆~

8月25日公開の映画「シーナ&ロケッツ 鮎川誠 ~ロックと家族の絆~」の告知。

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シーナ&ロケッツ 鮎川誠 ~ロックと家族の絆~
(ドキュメンタリー「解放区」)
つなぐ、つながる 毒ガス島の記憶

中国・河北省にある北タン村は1942年日本軍の攻撃を受けた。当時14歳だった李慶祥さんは村の地下道に逃げたが日本軍はその地下へ毒ガスを投げ込んだ。北タン村の中心部には毒ガス攻撃で亡くなった人たちのための霊園がある。日本軍の攻撃で亡くなった人は約1000人。李さんは家族8人のうち4人を失った。かつて毒ガスを製造していた藤本安馬さんは李さんに直接謝罪をしたという。

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北タン村(中国)李慶祥藤本安馬

藤本安馬さんは去年96歳でこの世を去った。毒ガスに関する資料を大量に書き残した藤本さんは日本の戦争加害の責任について最後まで向き合っていた。

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去年10月、東京の大学で開かれた映画祭ではプログラムの一つとして学生たちが大久野島の毒ガス製造についての朗読劇に臨んだ。参加した学生は「若い世代が伝えることの重要性を伝えられるような話にしたいなと思った」などと語った。

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大久野島藤本安馬
(エンディング)
エンディング

エンディング映像。

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