太平洋戦争が終わった1945年、大久野島には3000を超える毒ガスが残されていたとされている。毒ガスはアメリカ軍の指揮で土佐沖の海の底に沈められた。工場も火炎放射器で焼かれ解体された。毒ガスを製造していた藤本安馬さんは15歳の時島に渡り寄宿舎生活を送りながら養成工としてガスの製造方法を学んだ。工場に配属された藤本さんは「死の露」といわれる毒ガス「ルイサイト」を製造。ほぼ手作業で行い真夏には防毒マスクを取って作業を続けた。当時軍国主義に染まっていた藤本さんは毒ガスの製造に何の疑問も持たなかったという。