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オープニング映像。
与那国島の凄腕カジキ漁師・後間さんに密着。漁ではキハダマグロのシビを餌にする。後間さんはほとんどGPSも見ない、長年の経験で山を見ればわかると語った。船から見える山の形を見て自分がいる位置をとらえる山あてと言われる技だった。
凄腕カジキ漁師・後間さんに密着。長く鋭く尖った上あごの部分をフンと呼ぶ。カジキのフンはエサとなる魚を叩いて気絶させる。カジキがかかり、後間さんは船に上げる前にカジキが暴れないようしっかり叩いた。絶命のとき体が青く輝いた。これが英語名ブルーマーリンの由来とされる。釣り上げたカジキは89キロの大物だった。
後間夫婦は港を見下ろす家に住んでいる。妻は漁で疲れた夫に沖縄の郷土料理イカスミ汁を作った。後間さんの父は伝説のカジキ漁師で、カジキ1本で家族を養ってきた。後間さんは父に近づきたいと日々努力を重ねてきたが、2年前にガンになって漁に出られなくなった。ただ後間さんより前に妻が大腸ガンになって手術をした。2人は今も設備が整う他の島に通院している。後間さんは医者が止めるのも聞かずに漁に出ていた。
後間さんはカジキ漁に出た。与那国島の海底には浅瀬から深くなる場所があり、カジキは深いところから浅瀬へ上がってくる。地形を熟知する後間さんは、カジキが上がってくる場所に正確に船を走らせた。カジキがかかり、後間さんは91キロの大物を釣り上げた。
10月に目黒で恒例のさんま祭りが開催された。北海道・根室市の花咲港は日本屈指のサンマの水揚げを誇る。光の魔術師と呼ばれるサンマの凄腕漁師・中舘さんのサンマ漁に密着した。LEDライトに反応して集まったプランクトンにおびき寄せられたサンマを狙う。中舘さんの手元には船の形になった多くのスイッチがあり、ライトを操っていた。一方の明かりを消してサンマを1か所に集めた。棒受け網を逆側に水中に落とし、ライトの光る場所を変えて網の方にサンマを移動させた。網を手繰り寄せ、ポンプでサンマを吸い上げた。
凄腕漁師・中舘さんのサンマ漁に密着した。網の中にはサメがいた。サンマはサメに追われて散り散りに逃げてしまっていた。今回の釣果は1.7トンで期待するほどの量ではなかった。戦いを終え、船員たちはサンマ料理を味わった。船員たちは4か月間家族と離れて共同生活を送っている。中舘さんは中学の時に父が肺結核を患い、家族を守るために稼ぎの良い漁師の道を選んだ。28歳で船頭になった。絶好の漁日和となった日、中舘さんはサンマ漁に出た。釣果は36トン、1579万円の売り上げだった。
大間のNo.1マグロ漁師と言われる熊谷さんの漁に密着。熊谷さんは大間伝統の一本釣りでマグロを狙う。使うのは一本のテグスと釣り針だけ。フクラギに針をつけて海に投げ入れた。342キロの怪物マグロを釣り上げ、大間中を驚かせた。
大間のマグロ漁師・熊谷さんに密着。最近はマグロが少なく大きな群れがないと話した。不漁のため漁を休む漁師も多い。潮の変わり目に来るという熊谷さんの読み通り、正午過ぎにマグロが喰らいついた。熊谷さんは、細かく操船しながら電機ショッカーを入れられる深い場所へマグロを誘った。マグロはテグスを切ろうと暴れたが、熊谷さんは電機ショッカーを入れてマグロを仕留めた。重さは175キロだった。
水揚げ金額をもとに全国のカツオ漁船の成績は順位化され、毎月その結果が発表されている。名門の明神一族は、年間1位の座を長きに渡り独占してきた。1999年には年間最高水揚げ金額6億4100万円という記録を打ち立てた。22人の船員を率いてカツオ漁をする宮崎のカツオ漁船「竜喜丸」の船頭・日高さんは、去年水揚げ金額6億7500万円を記録し最高額を更新。2年連続1位という快挙も成し遂げ、今年は3連覇を狙う。
カツオ漁船の竜喜丸では、漁の前に全員総出でカツオの生き餌にするイワシのバケツリレーが始まった。その量は200杯ほど。出発すると漁船は奄美大島の西に向かった。船頭の日高さんは、なるべくみんなの行ってない場所で釣りたい、水温が高い所と低い所の間を探すと話した。カツオが釣れるかどうかは日高さんの読みにかかっていた。500キロ船を走らせて目的に海へ。船員たちは双眼鏡を構えて鳥を探した。小魚を狙う鳥の群れの下にはカツオがいるが、なかなか鳥が見つからなかった。
船員たちは午前5時に起床した。ソナーにはすでにカツオの群れの反応があり、日高さんは狙いを定めていた。空が明るくなると船員たちは次々とカツオを釣り上げた。疑似餌の針にかえしがついていないため、針がカツオの口から外れやすくなっている。さらに空中で竿を倒して針が飲み込まれる前に外していた。船の側面から噴射される水は、波立つ海面を小魚と勘違いされる仕掛け。仕掛けにかかったカツオが船の周りに群がっていた。
10時間船を走らせ、鹿児島の港に到着した。今回の漁では18.5トンを釣り上げ、450万円の売り上げだった。カツオ漁師の家に生まれた日高さんは33歳で跡を継いで船頭になったが、知識も経験も足りず釣れない日が続いた。今は結果を出し続け、船員たちの懐を潤していた。なかなか食いつかない日、船員たちは疑似餌の代わりにイワシを針に付けてカツオを釣り上げていた。新人漁師の森島さんは、17歳の若さで厳しいカツオ漁師の世界に飛び込んだ。10月上旬に全国のカツオ漁船の水揚げ額の順位が発表され、日高さんの船は2位に7800万円の大差をつけて1位だった。例年夏~秋は東北沖で創業するが、カツオの数が少なかったため南西の海に出る大勝負に出ていた。
日高さんは大きなカツオの群れを見つけた。船員たちが次々とカツオを釣り上げる中、また新たな群れが出現した。1時間に及ぶ格闘の末、一気に10トン以上のカツオを釣り上げた。それでも日高さんは、夕方も探そうとしたが見つけられずチャンスだっただけに悔いが残る、船頭が釣れてニコニコしていたら船員も満足してしまうので浮かれないようにしていると話した。
屋久島の海は木々が生み出すミネラルが海に流れ、黒潮と混じり合って豊かな漁場になっている。2009年には伝説の漁師と呼ばれる箕作永吉さんを取材した。永吉さんは今までにないある漁法でトビウオ漁をしていた。永吉さんの次男・秀吉さんはその秘伝の漁法を受け継いだ。
秀吉さんのトビウオ漁は親船と片船の2隻で行う。秀吉さんの足元にあるのはGPSと潮流計といった旧式の機器のみ。トビウオは魚群探知機に映らないため、秀吉さんは何度も潮の流れを確かめてトビウオの群れがいる場所を探った。秀吉さんが受け継いだロープ曳き漁は、親船と片船の間に1.5キロのロープを張り、ロープについた網でトビウオの群れを囲い込むというもの。ロープには天敵のシイラのように見えるビロというビニールのような仕掛けがついていた。
片船に乗った日高さんは海に入り、トビウオを網に追い込んだ。網を引き上げ、トビウオを収獲した。この一連の作業を1日4~5回繰り返す。かつて屋久島では春から初夏にかけて島に集まるトビウオの漁が盛んだったが、昭和50年代に数が少なくなり遠くまで漁に行かざるを得なくなった。屋久島のトビウオ漁を守るために永吉さんと兄弟が立ち上がった。鹿児島でとれるトビウオの8割は屋久島で、獲れたトビウオは干物やフライなどに加工される。秀吉さんは自分で獲ったトビウオをお店で提供している。
