- 出演者
- 寺門亜衣子 今田耕司 石川佳純
石川佳純は、ロンドンで銀・リオデジャネイロで銅・東京で銀と3大会連続でメダルを獲得し日本卓球女子の歴史を切り開いてきた。去年5月、現役生活に幕を下ろした。引退後は全国を巡り子どもたちに卓球の魅力を伝えている。今日のゲストは、石川佳純。
オープニング映像が流れた。
石川佳純は、両親と妹の4人家族。母親の久美さんは国体に3度出場した元卓球の選手で、自宅で卓球教室を開いている。母方の小川家の先祖は黒田官兵衛に仕えていた。黒田官兵衛に格別の忠義を尽くした小川家の武将が、小川与左衛門。1578年に黒田官兵衛は荒木村重に捉えられ存亡の危機に瀕する。離反するものが相次ぐなか、生涯忠義を尽くすと誓った家臣たちがいた。起請文の12人の家臣のなかに小川与左衛門の名があった。その後小川家は、官兵衛の孫が興した秋月藩の重臣として代々仕えた。島原の乱で天草四郎が籠城する城に秋月藩の武士が攻め入る様子を描いたものには、旗を背負った小川家の先祖がいた。明治27年に小川家次男として生まれた小川虎五郎が、石川佳純の曽祖父。堂々とした雰囲気をまとう人物で、従業員数百人を抱える紡績工場の工場長をしていた。
昭和4年・世界恐慌が起きると、虎五郎は紡績工場に見切りをつけて福岡市内に土地を購入し山羊牧場を始める。虎五郎は牛乳の供給が十分ではないとみてヤギ乳に目を付けた。
末弘は道場・隻流館の門を叩いた。14歳だった末弘は海軍に志願したが、翌年戦地に出ることなく終戦を迎えた。山羊牧場は無事だったため家業の担い手となり、以前にも増して柔道に打ち込んだ。道場には今も小川末弘の木札がかけられている。これは隻流館伝統の千本取りを達成した数少ない猛者の証。千本取りは約50人を相手に1日で千本に達するまで続ける試練。末弘が挑戦したのは昭和24年の19歳の時だった。その4年後、全国大会の団体戦で準優勝を果たす。
昭和30年頃になると山羊乳の重要が少なくなり小川家は牛乳の製造販売店に変更。四男の末弘は毎朝3時過ぎに配達し、他の仕事を1日たりとも遅れたり休む事は無かったという。昭和33年に末弘は小田圭子と結婚し、5年後には加純の母となる次女の久美が誕生している。石川佳純は「見た事ない映像が見られて、これからは先祖が実は関ヶ原に参戦したって言える」などと話している。
妹の石川梨良が石川佳純の素顔を紹介。石川佳純の魅力の1つは人柄で姉は1番家族の中でおしゃべりで家族4人でいる時は1番喋っているとコメント。姉はポジティブだが父は更にポジティブで父方の祖父はもっと更にポジティブなのに受け継がれていると思うと話している。
松江市にある公久の実家を尋ねた。現在は祖母の喬子さんと伯母の恵子さんが暮らしている。代々伝わる先祖の記録には石川家の歴史を語る上で11代前の勘左衛門が江戸時代の中頃に大満寺を開いたと記されている。世界遺産の石見銀山がある大田市は鉱山町として栄えていた。今の大満寺は住職のいない無住の寺になっており郷土史家の橋田良文さんは石見銀山の歴史をまとめた本の中に石川家に関する記述があったと話している。本には恋人と離れたく無かった娘のかよは自ら若い命を絶ち、それを悔やみ悲しんだ勘左衛門は大満寺を開き供養の日々を過ごしていたと書かれている。勘左衛門が作った阿弥陀如来像が近くの寺に残されていて背面には愛するかよの戒名が記されている。石川県の菩提寺には娘を思う父親の切ない物語が語り継がれていたという。
約150年が過ぎた明治初期にある夢を抱いて上京したのは石川佳純の高祖父である石川善五郎だった。形見の品は絵で画家を目指していた善五郎が郷を構えたのは浅草にある三筋町で作品の制作に没頭し国の展覧会にも出品。模写した絵などを売り暮らしていたが、明治18年の時に善五郎と妻のトラとの間に次男の晋が生まれ佳純の曽祖父だという。明治39年に晋は21歳で小さな事業を始め缶を製造する町工場を立ち上げていた。晋の五男である石川昇は当時の様子を父から聞いており「のりや茶の缶屋をやっていた、商売は上手く行き注文があった」とコメント。大正6年には晋が同郷の岩谷かなと結婚し、子宝にも恵まれていた。工場は職人を多く抱え豊かな暮らしを手に入れたが大正12年の9月1日に関東大震災が発生。浅草は瓦礫の山となり工場も被災し晋は財産の殆どを失い松江市にいる親族の元に身を寄せたという。晋が悪性のリウマチを患い半身不随になり、石川昇は「病院でもう治りません一生働けませんよと食うや食わずの生活が続いた」などと話している。
四男の四郎はふさぎ込む家族を元気つけた。昭和22年昭和天皇が戦後巡幸するなか松江にも訪問すると聞いた四郎は大八車に父親を乗せて案内した。その後、四郎は工業高校を卒業し地元の広告代理店の営業マンとして働き始めた。四郎の友人の田中博さんは石川さんの勤めていた会社は石川さんの売り上げでもっていたと話す。昭和38年四郎は親戚の紹介で喬子と結婚し父・公久が生まれた。
公久は野球やサッカー、ボーイスカウトなど体を動かすことが大好きだった。公久の友人の奥村博之さんは公久はクラスの人気者などと話す。公久は卓球に夢中になり始めて1年で松江市の小学生大会で優勝した。中学でも卓球に打ち込み高校ではキャプテンとしてチームをまとめた。高校のチームメイト余村広美さんは知り合いがいない中、受け入れてくれたのが公久だったと話す。公久は大学に進学し九州の強豪と言われていた卓球部に入る。そこで佳純の母となる久美と出会う。
石川久美さんは昭和38年福岡市に生まれた。久美は父・石川末広から優れた身体能力と1本気な気質を受け継いでいた。久美の母・小川圭子さんは男の子と相撲をとっても久美が強かったと話す。久美は中学で卓球を始めると部活の後、さらに別の卓球スクールにも通った。久美は高校2年と3年でインターハイに出場したあとスポーツ推薦で地元の福岡大学に入学した。
卓球部に入部早々に久美に忘れられない驚きを与え新入部員がいた。それが石川公久だった。久美さんは歓迎合宿の時に公久が替え歌を歌ったと話した。公久さんは現在福岡に単身赴任している。公久と久美は自然に惹かれ合い交際を始めた。昭和61年、大学を卒業した公久は父・四郎に憧れ広告代理店に就職した。久美は大手自動車メーカーの実業団チームで卓球を続けた。全国大会でベスト8に進むなど活躍した。出会いから8年で公久と久美は結婚した。
2人は公久の転勤先の山口市で暮らし始める。平成5年待望の長女が誕生。賢く、純粋にという願いを込めて佳純と命名した。佳純さんが小学1年生になったとき「ママ私も打たせて」と言ってきた。母の久美さんは本人がやりたいと言うまでは誘わないようにしていたという。練習を始めて3ヶ月、佳純さんは県大会8歳以下の部で準優勝。娘の才能を感じた公久さんと久美さんは新築した家の1階に40畳の広さの卓球場を作った。厳しい練習にも佳純さんは前向きに取り組んだ。実力を伸ばした佳純さんは全日本選手権小学生の部で優勝を勝ち取った。
佳純さんは小さい頃は卓球に正直全く興味がなかったと話す。他の習い事が続かなくなって卓球を始めてみたことがきっかけだった。夢中になって23年間やれるとは思っていなかったと語った。卓球に夢中になり始めた瞬間を聞かれると、卓球を始めて3ヶ月で全国大会の予選があり、とりあえず出てみると運良く通ったなどと話した。本人は卓球をなんとなく選んだつもりでいたが本日のVTRを観て、先祖の色々なルーツがあって始めたことを感じたと話した。家族の歴史を知れたのは今の卓球選手を卒業した自分にとってすごく嬉しかったですとコメントした。
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- 石川佳純
佳純さんの試合には祖父四郎さんと祖母喬子さんと小川家の祖父末弘さん祖母圭子さんが訪れた。初めて挑んだロンドンオリンピックでは日本卓球史上初となる団体戦銀メダルを獲得した。しかし祖父四郎さんは癌のため応援に訪れることができなかった。四郎さんが入院していた松江赤十字病院の看護師、石河さんは四郎さんが自身の病状よりも佳純さんの試合の結果を笑顔で嬉しそうに話していたなどと語った。佳純さんは帰国後すぐに銀メダルを持って見舞いに訪れた。平成27年5月四郎さんは息を引き取った。祖父末弘さんは現在94歳で施設で暮らしている。末弘さんは佳純さんへの想いを書き記していた。
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