約150年が過ぎた明治初期にある夢を抱いて上京したのは石川佳純の高祖父である石川善五郎だった。形見の品は絵で画家を目指していた善五郎が郷を構えたのは浅草にある三筋町で作品の制作に没頭し国の展覧会にも出品。模写した絵などを売り暮らしていたが、明治18年の時に善五郎と妻のトラとの間に次男の晋が生まれ佳純の曽祖父だという。明治39年に晋は21歳で小さな事業を始め缶を製造する町工場を立ち上げていた。晋の五男である石川昇は当時の様子を父から聞いており「のりや茶の缶屋をやっていた、商売は上手く行き注文があった」とコメント。大正6年には晋が同郷の岩谷かなと結婚し、子宝にも恵まれていた。工場は職人を多く抱え豊かな暮らしを手に入れたが大正12年の9月1日に関東大震災が発生。浅草は瓦礫の山となり工場も被災し晋は財産の殆どを失い松江市にいる親族の元に身を寄せたという。晋が悪性のリウマチを患い半身不随になり、石川昇は「病院でもう治りません一生働けませんよと食うや食わずの生活が続いた」などと話している。