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アニメ「鉄腕アトム」の放送は昭和38年に始まり、最高視聴率40.7%を記録した。放送に至るまで、幾多のハードルがあったという。手塚治虫は昭和3年11月に生まれ、マンガをこよなく愛した。自宅には200~300冊あったという。小学3年の時に描いた「ピンピン生ちゃん」はクラスで話題を集め、職員室で先生たちも回し読みするほどだった。終戦の翌年、手塚は漫画家としてデビュー。新聞で4コママンガ「マアちゃんの日記帳」を連載した。すると、200ページに及ぶ長編漫画の依頼が舞い込み、「新寶島」を発表した。映画のカメラワークを取り入れるなどし、40万部のヒットを記録。その後、人気連載を何本も掛け持ちし、昭和36年、長者番付の画家・漫画家部門でトップとなった。
手塚は子供の頃、ディズニーアニメを観て衝撃を受けたといい、後にアニメ制作プロダクションを設立する。1話30分のアニメを毎週放送すると掲げたが、10数名のアニメーターでは圧倒的に人材不足と言える。そこで、アトムではなく背景だけを動かしたり、作画を他の場面でも使い回すなど、作業量を減らした。手塚が重視したのはストーリーだった。
手塚は昭和44年に日本初となる大人向けアニメ「千夜一夜物語」、翌年に「クレオパトラ」を放送。だが、虫プロダクションの経営は傾き、倒産を余儀なくされた。また、漫画界では新ジャンル「劇画」が生まれ、写実的な作画、シリアスなストーリーは人気を博し、少年漫画に進出。手塚の作品は比較され、「お子様ランチ」とも評された。「やけっぱちのマリア」、「アラバスター」などを発表するも、手塚は「最低のレベルの時に描いた」、「陰湿で陰惨で非常に暗いと言われたが、それは当然」と回想している。ある時、手塚マンガに惚れ込む編集長、壁村耐三が新作を依頼した。医師国家試験に合格している手塚は「いつか医療をテーマにしたマンガを」と構想があり、「ブラック・ジャック」を発表。半年後、手塚は初めて原稿を落とし、「週刊少年チャンピオン」は過去のエピソードを再掲載した。読者から抗議が殺到すると、壁村はブラック・ジャック成功の手応えを感じたという。
「ブラック・ジャック」で復活した手塚治虫はヒット作を連発する一方、1日の睡眠時間は1~2時間ほどだったという。昭和63年、胃潰瘍と診断され、手術は無事に終わった。だが、医師は手塚の奥さんに胃がんを告げる。退院後、手塚は執筆に打ち込むも、食は細り、目に見えて痩せていった。がんの転移が判明し、ベッドの上でもマンガを描き続けたが、平成元年2月9日、この世を去る。最期の言葉は「頼むから仕事をさせてくれ」だった。生前のインタビューで、手塚は「アイデアだけは、もう本当にバーゲンセールしてもいいくらいあるんだ」と語っていて、60歳で亡くなるまでに描いたマンガは15万ページにのぼった。
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