- 出演者
- 中居正広 藤本美貴 大竹しのぶ 石原良純 陣内智則 長谷川美月 村重杏奈
去年、350本の番組に出演するなど活躍した石原良純。Z世代からは「どういう人かイメージできない」「長嶋一茂と被っちゃう」などの声が。今回、父・石原慎太郎にも絡めたエピソードを紹介。
1962年、神奈川県逗子市に生まれた石原良純。作家で政治家の石原慎太郎を父に持ち、おじには石原裕次郎など。親戚には小泉純一郎元首相など。幼い頃、家にはお手伝いさんが数人いたそう。小学校はセレブが多く通う慶應義塾幼稚舎へ。逗子から恵比寿まで電車通学。最寄り駅からはタクシーでツケ払い。住まいは逗子湾を一望できる父・慎太郎設計の豪邸。10年前に売却。部屋は複数あったが子供部屋は4人で1つだけ。その父は大学在学中に小説家デビュー。参院選に出馬すると史上最多得票で当選。人気の要因は歯に衣着せぬ発言。都知事を4期13年務めるなどした。良純は父に抱かれた経験がないそう。
慎太郎ファーストのヤバい暮らしとは。父が居る日の1日の始まりは緊張感に包まれる。何より睡眠を大事にしていた慎太郎のため。息を殺して父の目覚めを待つ。起きた合図は親子電話。兄妹の誰かが起きた父の世話をする。当番は決まっておらず、まず寝室まで新聞を届けに行きカーテンを開け朝日を入れたら、たわしで乾布摩擦。父と遊んだ記憶はあるが、全ての父のタイミング。半年に一回の家族サービスは忘れなかった。家族全員のお楽しみでお盆と正月の家族旅行は良純が大学を卒業するまで続いた。だが、絶対命令が発令する。行き先変更を連発する慎太郎。
4兄弟が口をそろえた石原家の変な決まり。毎日、体重の変化に合わせてベストな朝食を選ぶ慎太郎のため母は常に3種類の朝食を準備している。夕食は母・子どもが夜6時から、父は夜7時から夕食を食べる。養育方針は自由放任で成績や将来について口出しされない。晩年、四男の延啓は子育てについて父から衝撃の一言を聞いたという。何も教えてくれなかったと指摘すると、慎太郎は涙ぐみながら「興味がなかった」と話したという。
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「news23」の番組宣伝。「急増する感染症 避難所の医師は…」。
石原軍団とは、石原裕次郎が設立した芸能事務所「石原プロモーション」の面々の通称。兄・慎太郎原作の映画「狂った果実」などで人気となった裕次郎。軍団には渡哲也、舘ひろしなど所属。映画制作も自社で請け負っており、ど迫力なアクションシーンや爆発シーンなどでヒット作を制作。大規模な炊き出し活動なども実施。石原伸晃など選挙時には軍団員が応援演説。風呂では先輩から順に湯船に入る慣例など、体育会系の雰囲気だったそう。
ある分のおにぎりは食べきる慣例だった石原軍団。良純は食べきれず、具だけを食べて余りは袖に隠していたそう。お好み焼きの時には金庫に隠したがバレたそう。石原裕次郎が膵臓がんで入院中には、軍団結束のために渡哲也が飲み会を主催。これが終わると、別の先輩の飲み会に呼ばれることが。すなわち、送る先輩の数だけ部屋飲みに誘われたそう。先輩へのモーニングコールも当時の良純の仕事。
石原裕次郎の甥っ子として俳優デビューした石原良純。今では年間350本の番組に出演するタレントに。ジャンルを超えた人気ものになれた秘訣について「つかこうへいの舞台」と話す。35歳でつかの舞台で主演。「主役なんてただ大きい声で話していれば良い その代わり、動くなよ 揺れるなよ」との言葉をもらい、どんな現場でも恐怖を感じなくなったそう。中居とも深い共演歴。良純の魅力を「ファンが居ない=最高の強み」など紹介。
一昨年、石原慎太郎が膵臓がんで死去。歯に衣着せぬ発言で物議を醸す一方、人前で涙することも。バラエティ番組に出演するとおちゃめな一面も。1999年~2012年までは東京都知事に。作家としてもヒット作を連発。生涯で600作を発表。2013年2月、脳梗塞の発症で1カ月入院。後遺症で左半身が麻痺。懸命なリハビリにも励み一時は回復。ワープロを使った作家活動も継続。2020年、膵臓がんが発覚。同時期、妻・典子も施設へ。死ぬ直前までエネルギーにあふれていたという。重粒子線治療で一度は膵臓がんが消失。
「Eye Love You」「不適切にもほどがある!」「日曜劇場 さよならマエストロ~父と私のアパッシオナート~」の番組宣伝。
「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」の次回予告。
2021年10月、言うことも聞かず1人で病院に行ってしまった。すい臓がんが再発し余命3か月を告げられたという。弟・裕次郎はがん闘病での壮絶な最期を遂げている。弟の死から痛みを恐れ抗がん剤ではなく緩和ケアを希望した。
海で最も危険な夜、つまり死を意味していた。慎太郎は死を恐れるようになっていったのだ。余命宣告後、「死ぬのはつまんない」と語るようになった。誰よりも生を楽しんだ慎太郎にとって死=つまらないもの。2021年12月31日、父と大晦日を過ごすことに。夕食後、すぐ寝ようとする父に話をしようと持ちかけるも偉そうだと叱られた。だが良純は嬉しくなり父の言葉を書き留めたという。2022年1月下旬、体調はさらに悪化し寝たきりとなった。亡くなる2日前、顔を一目見ようと立ち寄った良純に生涯忘れられない出来事が。体の自由が利かないことへの苛立ちの行動を見せ「それでこそ石原慎太郎だ」と良純は思った。2022年2月1日に亡くなり、電話で知らせを受けた良純は悲しみよりも驚きが先に出た。石原慎太郎は闘病中、周りの人に何度も話した言葉がある。
石原慎太郎は闘病中、周りの人に何度も話した言葉がある。それは「俺の人生は良い人生だったよ」。直接語らずとも4人の子どもたちには伝わっていた。そして若い世代に石原慎太郎が遺したメッセージを紹介した。母・典子さんは石原慎太郎死去の約1ヶ月後に亡くなった。
2002年9月、12歳年下の皮膚科医と出会って3か月のスピード婚。現在、妻・息子・娘の4人家族。家族に聞いた家での良純。妻のアンケートは「起床直後から声が大きく、立てる物音が非常に大きい」と答えた。長女は「家でも声が大きく家族4人の中で一番元気」などと答えた。長男はお父さんにやめてほしいことについて「特にありません」と答えた。長女から元気なお父さんで迷惑だったことについて「学校のマラソン大会で勝負に真剣な中、応援に来てくれるところまで嬉しかった。けれど父までジョギング姿で並走してガラケーでカメラのシャッターを切られた時は本当に困った」と答えた。
2023年夏、ある企画の強烈な売り込みがあった。4ヶ月間、マネージャーが売り込みを続けた企画は「芸能生活30周年 陣内智則 波乱万丈」。1974年、加古川市で誕生した3人兄妹の末っ子。端正なルックスでモテモテだった。18歳でNSCに入所しコンビ・リミテッドを結成。しかし人気の無さから見たら不幸になるコンビと呼ばれ舞台に立つと観客が顔を伏せる。結成から3年で解散しピン芸人として再出発した。電車に乗っているとき車掌さんが噛みまくり陣内はアナウンスへツッコミ乗客が大笑い。届かない相手へのツッコミを見つけた陣内は映像にツッコむ現在のコントを開発。当時、人気だったお笑い番組で一躍全国区へ。2003年には俳優業にも進出。そして2007年、大人気女優と格差婚で世間から祝福を受けるも、わずか2年で離婚。原因は陣内にあり好感度は急落。仕事はほぼゼロになった。そんな中、陣内が向かった先はソウル。2011年6月、初の海外ライブに挑戦した。すると600名を超える観客から笑いが。初めての海外ライブは大成功を納めた。その後、2度のアメリカ公演でも大盛況。2023年、デビュー30周年の節目にアジアツアーを開催した。2023年テレビ出演本数は473本にも及んだ。
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