- 出演者
- 中居正広 藤本美貴 石原良純 陣内智則 ギャル曽根 IMALU 安田章大(SUPER EIGHT)
今回は、日常のピンチと対処法を紹介して大ヒットしている絵本「大ピンチずかん」にちなんで、SUPER EIGHT・安田章大ら芸能人が大ピンチを振り返る。
京都に生まれたギャル曽根は、父親が建設会社を経営し、その社長令嬢として10LDKの大豪邸で裕福な暮らしをしていたという。ギャル曽根自身は、小学校低学年の頃から毎晩1升の白米を平らげる大食いで、姉も大食いだったという。しかし、小学3年生の時に父親の会社が倒産し、数億円の借金を残して離婚。母親は返済のために豪邸を手放し、貧乏生活を送るようになったが、母親が作る創意工夫を凝らしたアイデア料理のおかげで、子どもたちの食べる量は変わらなかった。中でも、ギャル曽根が好きだったのはトマトジュースで炊いた「赤いご飯」だったという。だが、子どもたち全員が食べ盛りに突入すると、家計は工夫では追いつかず苦しくなっていった。
ギャル曽根は貧しい一家に育ち、食べ盛りの頃には食費がままならない状況に。優勝賞品を狙って姉妹でマラソン大会に出場するなどし、地元では有名な大会荒らしに。高校時代には「2kgのカレーを20分で食べれば無料」という店でチャレンジを成功させ、初めて自らの大食いを自覚。次第に大食い大会にも出場するように。
- キーワード
- 元祖!大食い王決定戦
哀川翔さんが登場。100本以上のVシネマに出演してきた。芸能界でケンカが一番強いとのこと。カブトムシの愛好家でもある。臨死体験でまさかの景色を見たという。1995年に事件が起きた。飲んでて眠くなったという。そして衝撃が襲う。
哀川翔さんはある日、突然眠気が襲い、その場に眠ったという。眠ったまま心肺停止。10日前にも自宅で同じことが起きていた。マッサージの最中に、心肺停止。病院で検査したところ、原因は不明。そしてふたたび心肺停止。心肺停止後の生存率は時間とともに大きく低下する。生存率10パーセント以下。生死をかけた心臓マッサージ。電気ショックを与えるようにする。電気ショックは3回、心臓マッサージは30分。心肺停止状態のまま。受け入れ病院が見つからなかった。
救命措置を行うも心肺停止のままの哀川翔はついに40分が経過。誰もが諦めたその時、元気な姿で出てきたという。実は、お酒を飲み意識を失った瞬間から哀川は夢の中でおがくずに埋もれている夢を見ていたという。現実世界で救命活動が行われる中、哀川はカブトムシ生活を満喫していたという。その後しばらくした所で、おがくずの中で寝ててもしょうがないからとりあえず出るかと掘ったら、寝てた哀川がもがきながら起きてきたという。なぜ心肺停止から奇跡の生還を果たしたのか専門家によると、はっきりした原因は不明だが一時は心停止したが仲間が動かしたショックで知らぬまに回復し、また心肺停止と繰り返していた可能性があるという。いち早く気づいたおかげで一命を取り留めたという。この休止に一生の大ピンチを乗り越え、哀川は公美さんと結婚を決意。以来、夜9時に寝て朝4時過ぎに起床。62歳になった今も健康に過ごしている。
IMALUは2022年に奄美大島に移住。東京と行き来しながら芸能生活を送っていることでも話題だが、両親が明石家さんまと大竹しのぶという特殊家庭ならではのピンチがあったという。それは、海外の友人が来日したとき、父親のことを知らないから「IMALUの両親テレビで見られるの?」とワクワク楽しみにしてくれていたという。テレビに映っていたのは…。
留学先の友人に父の職業を聞かれたIMALU。ちょうどテレビに映っていたのは、ラムちゃんの格好をして出ていて恥ずかしかったという。そんな中、最大のピンチがワイドショーの囲み取材。当時はプライバシーなどほぼなかった時代。ときには自宅にまで押しかけ大騒ぎすることもあった。すると次第に矛先は娘のIMALUにも。その中に井上公造がいたらしく、母親が家にいるか聞かれていて最初は答えたりしなかったが、毎日飴をあげていたという。飴をあげ続けてすごくいい飴をあげたら最終的にバラしたという。こうしてIMALUは子供ながらにピンチを切り抜けたという。
今年デビュー20周年を迎えたSUPER EIGHT。メンバー・安田章大には芸能界引退を考える生命の危機があった。2017年、突然いつもと違う頭痛があり病院で検査すると拳サイズの髄膜腫が見つかった。1週間後に緊急入院し、ファンに極秘で12時間に及ぶ手術が行われた。手術は成功。メンバーは思い思いのメッセージで励ました。入院した安田を支えたのは関西から駆け付けた母。その様子を10日間かけて日誌に記していた。身の回りの人に支えられていることに改めて気付かされたという。命を取り留めた代償として光過敏という後遺症が残った。強い光を見ると視界が歪み頭痛や吐き気を催す。以来、サングラスは外せなくなった。 また術後てんかんのリスクとも付き合っていくこととなった。退院から2日後にはイベントに出演していた。イベントでは隣にいた錦戸がベルトを持って倒れないようサポートしてくれていた。3か月後には舞台主演も務めた。
2018年4月、安田章が自宅で入浴中にてんかんの発作が起きた。ひきつけの強さに背骨と腰骨を骨折。湯船に顔を浸けたまま気絶した。このピンチにたまたま居合わせた友人が安田を引き上げ、一命を取り留めた。当時のことについて安田は、この1日を楽しみにしてた人が沢山いるのにと思うと休むという選択肢は思いつかなかったと話す。てんかんを抑えてくれる色は人それぞれ違うといい、安田は青いサングラスをしている。安田が骨折で入院しているとき、渋谷すばるが脱退を決意。その記者会見には出席できなかった。グループへの影響を考え、渋谷脱退に自身の事故を立て続けに公表することはしなかった。
安田は九死に一生を得たが立つことも出来ない大怪我を負った。3ヶ月後には新体制での全国ツアーが決定していた。さらに渋谷の穴を埋めるため安田の歌唱パートが大幅に増えていた。ツアーに向けリハビリを開始した。折れた背骨を支えるため衣装の下にはコルセットが必須だった。移動では横になったままだった。そして3か月後のツアーリハーサルが開始された。ギターを支えることも出来なかった。身も心も限界を迎えた安田は辞めたいと申し出た。安田はグループの脱退も考えたことも何度もあったという。メンバー会議は何度も続いた。
「オールスター感謝祭’24春」「くるり~誰が私と恋をした?~」「日曜劇場 アンチヒーロー」の番組宣伝。
身も心もボロボロとなり、関ジャニ∞脱退を考えるようになった安田章大さん。そんな中、メンバーで最も付き合いの古い大倉忠義さんからある言葉をかけられるようになったという。安田さんは「ただただ生きてくれという言葉をもらったときは温かい言葉であり、本気というものが刺さった」などと話した。安田さんは「無理しないでいいという意見もあれば、ステージに立つことで顔が見られて安心してもらうやり方もある」などと話した。身も心もボロボロだった安田さんを救ったのは長年連れ添ったメンバー達とファンの存在だった。安田さんは「SUPER EIGHTを自分たちだけのものじゃないと実感した瞬間」などと話した。また父親から「やるんだったらやりきれ」との言葉を後押しに全国ツアーへ向け走り始めた。しかし問題はメンバーが抜けた新体制としてどれだけのパフォーマンスを披露できるかで、グループの再起は安田さんの歌声にかかっていた。未だ長時間立っていられないほどの満身創痍で、いつてんかんが起きてもおかしくはない状態で、ギターを背負ってるだけで痛いという。5万人が見守る中、ツアーがスタートした。リハビリに耐えた安田さんが披露した曲は「オモイダマ」で、グループの完全復活を果たした瞬間である。安田さんは「僕と同じ経験をされた方々が他の病気で闘っている人もいるが、どうにもならない時は人に頼るのが一番」などと話した。
15年程前につんくプロデュースでCDデビューを果たすなど人気者だったギャル曽根は仕事でハワイに向かった時に入管職員が騒ぎ出し、部屋に連れて行かれ死を覚悟したという。
ギャル曽根はハワイに向かった際、入管職員に部屋に連れて行かれ犯罪を疑われた。理由は写真とすっぴんが違いすぎると疑われた為だった。ギャル曽根は約3時間かけてメイクして通してもらったという。
- キーワード
- ハワイ(アメリカ)
ナカイの窓でハワイにロケに行く際、スタッフにエコノミーのチケットを取られており、それについて揉めたら3ヶ月間日テレを出禁になった。3ヶ月後、陣内は番組を卒業することになり、今ではエコノミーでも文句を言わなくなったという。
女性のツノさんがピンチを乗り越えたエピソードを紹介。小学校の水泳授業で急いで着替えて並んだら、周りがこちらを見てきて確認したら水着の背中と前が逆になっていた。
男性がピンチを乗り越えたエピーソードを紹介。小学1年生からチェロをやっており、中学2年生の時にイタリアへ演奏旅行に行ったが、そこで踏み絵詐欺に遭い、そこで50ユーロ払った。
- キーワード
- イタリア
現役CAがピンチを乗り越えたエピソードを紹介。飛行機内で客が便を漏らしてしまい、飛行機が空港に戻ったという。