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2011年3月11日から半年後の秋、全日本テレビ番組製作社連盟の呼びかけで被災地の子ども100人がビデオレターを撮影した。そのビデオレターに2026年、新たに取材した映像を加え、再構成。ビデオレターを通して、15年の歳月を見つめる。
100通のビデオレターの中でも、とびきり元気で明るいメッセージを届けたのが、美紀さん。暮らしていたのは、名取市閖上地区。住民の1割以上、約750人が津波の犠牲になった。家族は無事だったが、自宅は全壊。震災当日、美紀さんは、小学校屋上に避難し、寒さと恐怖の中一晩を過ごした。2014年、美紀さんは、閖上から7キロほど内陸にある仮設住宅にいた。仮設内の学習塾では、美紀さんひとりで授業を受ける日もあった。閖上では、高台移転などをせず、一部地盤の嵩上げ工事を行い、現地再建を進めてきた。街の整備が進むにつれ、外から移り住む人も増えてきた。美紀さんは現在、22歳。名取市内に住み、仙台で電話対応の仕事をしている。美紀さんは、15年前に作ったビデオレターを久しぶりに見返し、周りの人を笑顔にしたい、元気にしたいという気持ちがあったかもしれないなどと話した。小学6年生のとき、中学進学を控えた美紀さんに対し、母親は、いつもニコニコしていて、元気、誰にでも愛嬌よくやっていた、だから一番心配していなかったが、寂しいところもあると思うなどと話していた。美紀さんは当時を振り返り、人を頼れず、自分から、やりたいことなどを言い出せない性格だったと話す。母校の閖上小学校は、美紀さんが中学3年生のとき、小中一貫校として再建された。高校では3年間、人間関係に悩んでいたという。美紀さんは、大切にしたい人を大切にすればいい、みんなにそうしていると疲れてしまうからなどと話した。当時、心の拠り所になっていたのが、津波に耐えて残っていたいくつかの建物。美紀さんは、建物として生きる力が見えてすごいなどと話した。唯一残っていた建物も今、解体されようとしている。美紀さんは、起きてしまったことは巻き戻せない、これからどう生きていくかが一番大事だなどと話した。
福島県・いわき市でバレーボールをしていた蓮さんはバレーボール女子日本代表の竹下佳江選手にビデオレターを宛て、東日本大震災でバレーボールの道具がなくなったり練習場所が無くなったことなどを伝えた。蓮さんが暮らしていたのはいわき市の豊間地区で、8mを超える津波によって蓮さんの家も1階部分が浸水して住むことができなくなった。蓮さんのチームは震災から1ヶ月後に他の体育館を借りて練習を再開し、竹下選手と同じセッターとして練習に励んでいた。現在蓮さんは広島市の女子プロバレーボールチームのアナリストとして働き、これまで竹下選手を目標にセッターとしての練習を重ねてきたことなどを語った。蓮さんは将来地元の福島県で子供達にバレーを教えるのが夢だという。
里菜さんはこの日、妹の彩香さんに付き添ってもらい訪ねる。姉妹が津波に巻き込まれた体育館は2013年に取り壊された。休止に一生を得た姉妹だが、牡蠣養殖で海にいた祖父母の安否が分からなかった。地震の時に海にいた祖父母はすぐに高台に避難し無事だった。震災から半年、牡蠣処理場は再開に向けて動き出していた。里菜さんは高校卒業後、実家から近い会社を探し就職した。今は姉妹も家計を支えている。仕事場は家から車で30分の距離。あの日のように家族が離れ離れになることがないよう、人生の選択をしてきた。
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3月11日、多くの学校では卒業式の準備が進んでいた。震災当時小学6年生だった大地さんが校長先生に宛てたビデオレター。常磐地区にあった大地さんの小学校では卒業式が中止になった。しかし1カ月後、校長先生が卒業式を開いてくれた。あれから15年、大地さんは東京・渋谷で美容師として働いていた。今は副店長を任されるほどの腕前。自分の店を持つのが夢だという。今年1月、大地さんが故郷に帰省した。共働きの両親に代わり、祖父母が大地さんの面倒を見てくれていた。この家も地盤沈下で傾き続けているという。大地さんは一緒に居たいと思いながらも葛藤があるなどと話した。大地さんはどうしても会いたかった、鈴木元校長の元へ。鈴木元校長は卒業式の日、児童1人1人のために選んだ言葉を書いた写真立てを用意した。大地さんに贈った言葉は「挑戦」だった。
福島第一原発の事故によりふるさとを離れなければいけなかった子どもたち。7歳だった葵さんが避難生活をしていた時に作ったビデオレターはパパに送ったもの。葵さんが暮らしていた福島県双葉町は町全体に避難指示が発令され、葵さんは母と弟と3人で各地を転々と避難した。父が勤めていた双葉町役場は埼玉県へ移転し、震災当初は父とは離れて暮らすことに。2012年、家族は埼玉県のマンションで一緒に暮らせるようになった。2020年、高校生になった葵さんは初めて双葉の家に立ち入ることができた。葵さんは現在東京で1人暮らしをする22歳。双葉に暮らすことがないまま15年が経った。今、実家は茨城にあり、父は単身赴任しながら双葉町役場で働き続けている。葵さんは「お父さんが頑張っている姿を見て自分も何かしないといけないのかも」などと話した。大学では観光学を専攻。卒業論文では被災地のことを選んだ。双葉町は2020年に一部エリアの避難指示が解除され、街の整備が進められている。2022年には住民の帰還が始まったが、一方で町の85%は帰還困難区域のまま。原発から約3キロにある葵さんの家は中間貯蔵施設のエリアの中にあり、立ち入りには特別な許可が必要。今年2月、葵さんは久しぶりに家を訪ねた。2025年春にこの地域の建物は解体され、4年間暮らした家は跡形もなく消えていた。葵さんは「変わらず双葉が故郷って気持ちはあるけど、目の当たりにすると戻れる場所がない」などと話した。国が除染土などを県外で最終処分すると約束した期限は2045年。葵さんはこの春、東京で就職し新たな道を歩み始める。
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