- 出演者
- 渡邊佐和子 佐藤二朗 河合敦 松本潤 板垣李光人
当番組が大河ドラマ「どうする家康」とコラボレーション。テーマは徳川家康VS.豊臣秀吉。
スタジオには「どうする家康」で出演者が着用している甲冑が用意された。徳川は金陀美具足から紺に統一され、井伊直政の甲冑は真紅。羽柴秀吉の甲冑は前立につけられた逆さまの瓢箪が特徴的。
羽柴秀吉は各地の大名を従えていた一方、徳川家康は信濃を任せていた真田昌幸に謀反を起こされ、大敗を喫した。さらに徳川家重臣の石川数正が秀吉のもとへ走った。そんな時、天正地震が発生。文献から各陣営の被害を読み取ることができ、家康攻めの最前線だった長島城、兵糧をストックしていた大垣城は全壊。秀吉は「これまでのことは水に流してやるから上洛し、家臣になれ」と家康に書状を送った。家康が拒否をすると、秀吉は自らの家族を人質として差し出してきた。家康は上洛することで、秀吉との戦を回避する道を選択した。
天正地震に遭遇した宣教師は液状化現象を目撃した他、40日に渡って余震が続いたという。仮に家康が秀吉に従わず、戦をする選択をしていた場合、河合敦氏は「徳川が負けて滅んだ可能性が高い」と語った。豊臣秀吉が天下統一を果たすと、家康は関東を治めるよう命じられる。
東京・霞が関は東京湾から3km離れているが、400年前は海にほど近かった。かつての江戸は湿地帯で、家康はすぐさま運河を造ったという。開削時の土を捨てず、運河の両脇に積み上げ、居住に適した地盤に。また、運河は物流の大動脈として使われ、町にはヒト、モノが集まった。
松本潤は家康による江戸の町づくりに一番興味があるといい、板垣李光人はより一層、家康へリスペクトを抱いていた。河合敦氏によると、秀吉による天下統一後、国替えで新天地に移った大名はきちんと統治できていないと、切腹させられていた。松本は「どうする家康」で家康は彫刻に熱中するなどクリエイティブなことが好きそうな感じがするといい、佐藤二朗は「江戸の湿地帯を目にして家康は腕が鳴ると思っていたのかもしれない」と語った。
1592年、家康は江戸から900km以上離れた肥前名護屋に呼びつけられた。豊臣秀吉は朝鮮出兵を企図し、現地には城塞がつくられていた。のべ30万の軍勢が渡海し、3年に及ぶ戦いが繰り広げられることとなる。秀吉は出陣を控えていた大名たちを豪華絢爛な黄金の茶室に招き、権威を見せつけたという。家康も肥前名護屋の屋敷に質素な茶室をもうけ、誰でも受け入れて仲間に引き込んでいった。秀吉に次ぐ権勢を持っていたため、大名同士の揉め事の仲裁に入り、信頼を勝ち得た。その後、秀吉の朝鮮出兵は苦戦を強いられ、1598年8月、秀吉は62年の生涯を閉じた。家康は朝鮮からの兵士の引き揚げに取り掛かり、戦に疲弊していた大名たちの人心を掌握した。1600年9月、関ヶ原の戦いで家康は勝利を収める。
豊臣秀吉は太閤検地で各大名の生産力を明らかにし、自由に配置換えを行った。徳川家康は後から従ってきた大名ほど、江戸から遠くへ移し替えたという。松本潤は秀吉のみならず、今川義元、織田信長らとの交流を通じて、家康は天下泰平の世をつくっていったと話す。佐藤二朗は大河ドラマ「どうする家康」の展開を楽しみにしているという。
「歴史探偵」の次回予告。