- 出演者
- 渡邊佐和子 佐藤二朗
オープニング映像。
上杉景勝の重臣、直江兼続が対立していた徳川家康に宛てた書状があり、長さは4mを超える。挑発的な内容に家康は激怒し、会津に向けて出陣した。その隙をついて石田三成が挙兵し、関ヶ原の戦いに繋がったとされてきた。だが、書状の内容、名前の表記など直江兼続が書いたか疑問符がつくといい、さらに近世史を研究する水野伍貴氏は上杉家は家康に応じ、上洛を決めていたと話す。家康軍が進軍してくると、上杉家は徳川側に囲まれることになり、勝ち目は無かった。一方、家康からすれば豊臣家を支える上杉家は目の上のたんこぶで、排除しようという思惑があったという。
上杉家は神指城を造り、東日本を代表する経済都市をつくる構想があったといい、すぐには上洛できず、猶予を求めていた。家康は期日を決め、直江兼続の妻子を人質として差し出すよう求めると、交渉は決裂。結果的に徳川は軍を差し向け、上杉家の領地を虎視眈々と狙っていた伊達政宗も進軍した。
上杉家は豊臣秀吉の意向で越後から会津に移されていた。また、18歳で家督を継いだ伊達政宗は5年間で領地を約4倍に広げたが、秀吉による小田原攻めに遅れてしまったことで領地が取り上げられ、上杉家のものに。佐藤二朗は心血を注いで獲得した土地をなんとかして奪い返したいと、家康側に加わった伊達政宗の気持ちは理解できるという。
1600年7月、伊達政宗は他の大名に先駆けて上杉攻めを開始。だが、ほどなく家康から会津征伐中止の知らせが。石田三成が挙兵して大坂城を手中に収めてしまい、家康は江戸に引き返さざるを得なくなった。伊達政宗は直江兼続に休戦協定を申し入れることに。石田は上杉家に伊達政宗とともに連合軍を結成し、江戸へ進撃して欲しいという計画を記した書状を送った。残念ながら、計画は実現することは無かったが、歴史シミュレーションゲームを開発するシブサワ・コウ氏に歴史のIFをシミュレーションしたいと要望すると、快諾してくれた。兵力や地形、大名たちの性格をデータとして考慮し、AIを駆使したシミュレーションが実現。伊達政宗は要所を制圧すると、後方で静観。その後、野戦の名手である家康が城から打って出ると、連合軍に勝利し終了。ただ、兵力を失ってしまい、そこに石田三成ら西軍が急襲していたら、どうなっていたか?
仮に上杉軍、伊達政宗らによる東北連合軍が実現し、江戸に迫ったとしてもどこまで一枚岩だったかは分からない。それでも、外岡慎一郎は「見たかった気はする」と語った。なお、直江兼続は戦いの前に占いをするなど信心深い人物だったという。また、伊達政宗は戦国随一のグルメで、健康にも気を使っていたとされる。
1600年9月、伊達政宗と和睦した上杉軍は最上義光領へ侵攻。2万5000に対して、最上軍は7000だったが、苦戦を強いられた。最上軍は山城へ至る道が蛇行していたのを利用し、四方八方から鉄砲、弓矢を浴びせたという。さらに伊達政宗が突如として離反した。徳川家康から「東北7ヶ所の地を伊達家のものとして認める」という書状が送られていたといい、実現すれば100万石の大大名となる。そして、9月15日、関ヶ原の戦いが行われ、1日で西軍は壊滅してしまった。石田三成が構想していた東北連合軍作戦は消滅し、上杉軍は撤退を余儀なくされた。すると、伊達政宗、最上義光の連合軍が急襲。直江兼続は殿を務め、敵軍を押し戻すことに成功した。
上杉軍を撤退させるために殿を務めた直江兼続について、伊達政宗は賛辞を送ったという。そんな伊達に徳川家康は「東軍についたら、領地を大幅に増やす」と書状を送っていたが、蓋を開けてみれば、2万石増えただけ。一揆を扇動したことが家康に知られることになってしまったという。上杉軍は関ヶ原の戦いを経て、領地は120万石から30万石に減らされてしまった。家臣たちに我慢を強いることになったが、兼続自身も身を削ったといい、評価を上げたという。近田雄一アナはまだ知らない関ヶ原を特集した番組「決戦!関ヶ原II」をお知らせした。
「歴史探偵」の次回予告。