上杉景勝の重臣、直江兼続が対立していた徳川家康に宛てた書状があり、長さは4mを超える。挑発的な内容に家康は激怒し、会津に向けて出陣した。その隙をついて石田三成が挙兵し、関ヶ原の戦いに繋がったとされてきた。だが、書状の内容、名前の表記など直江兼続が書いたか疑問符がつくといい、さらに近世史を研究する水野伍貴氏は上杉家は家康に応じ、上洛を決めていたと話す。家康軍が進軍してくると、上杉家は徳川側に囲まれることになり、勝ち目は無かった。一方、家康からすれば豊臣家を支える上杉家は目の上のたんこぶで、排除しようという思惑があったという。
上杉家は神指城を造り、東日本を代表する経済都市をつくる構想があったといい、すぐには上洛できず、猶予を求めていた。家康は期日を決め、直江兼続の妻子を人質として差し出すよう求めると、交渉は決裂。結果的に徳川は軍を差し向け、上杉家の領地を虎視眈々と狙っていた伊達政宗も進軍した。
上杉家は神指城を造り、東日本を代表する経済都市をつくる構想があったといい、すぐには上洛できず、猶予を求めていた。家康は期日を決め、直江兼続の妻子を人質として差し出すよう求めると、交渉は決裂。結果的に徳川は軍を差し向け、上杉家の領地を虎視眈々と狙っていた伊達政宗も進軍した。