1600年9月、伊達政宗と和睦した上杉軍は最上義光領へ侵攻。2万5000に対して、最上軍は7000だったが、苦戦を強いられた。最上軍は山城へ至る道が蛇行していたのを利用し、四方八方から鉄砲、弓矢を浴びせたという。さらに伊達政宗が突如として離反した。徳川家康から「東北7ヶ所の地を伊達家のものとして認める」という書状が送られていたといい、実現すれば100万石の大大名となる。そして、9月15日、関ヶ原の戦いが行われ、1日で西軍は壊滅してしまった。石田三成が構想していた東北連合軍作戦は消滅し、上杉軍は撤退を余儀なくされた。すると、伊達政宗、最上義光の連合軍が急襲。直江兼続は殿を務め、敵軍を押し戻すことに成功した。