- 出演者
- 佐藤二朗 河合敦 塩崎実央
オープニング映像が流れた。
桜田門は皇居南側の入口にあたり、井伊直弼の屋敷はそこから約400mほど離れていた。1860年3月3日午前、大雪が降るなか、井伊直弼らは桜田門へ向かっていたところ、18人の水戸藩浪士に襲撃された。現場は現在の警視庁前にあたる。実は井伊は居合の達人で、新心新流という流派をおこすほどの実力者だが、従者である彦根藩士たちは襲撃に恐れをなして多くが逃走。河合敦氏は「彼らはアルバイトで、命を捨てるまでの勇気はなかった」と話す。寒さも影響して彦根藩士たちの戦いぶりは精彩を欠き、井伊直弼は命を落とすこととなったという。
桜田門外の変が起きた3月3日は上巳の節句にあたり、大名は将軍に謁見するために江戸城に行く必要があったという。水戸藩士たちは井伊の予定を予め掴んだ上で犯行に及び、寒さも味方したという。黒船来航後、外国と公益を行うべきと考える開国派、外国人など打ち払うべきと訴える攘夷派が対立し、前者のトップが井伊直弼、後者のトップは水戸藩の徳川斉昭だった。井伊によって徳川斉昭は水戸での謹慎処分を言い渡され、水戸藩の募らせた恨みは桜田門外の変へと行き着く。
安達清一郎は桜田門外の変に関わった関鉄之介を匿ったと、日記に綴っている。内容を紐解くと、最初の銃撃で井伊直弼は事切れたという。また、関の弟の証言によると、関鉄之介は事件当日、銃を携帯したというが、関本人は銃撃したとは安達に言っていない。襲撃犯の1人、森五六郎は自ら出頭し、尋問を受けた。記録によると、森は携帯していた銃で駕籠を撃ったといい、澤田平氏はその銃を所有している。 外国から入ってきた銃を模した日本製で、オリジナルはアメリカ製。マシュー・ペリー提督が皇帝に献上した銃の1丁が水戸家に渡り、参考にして銃を製造したという。
徳川斉昭のもと、水戸藩では攘夷のため軍備増強を図っていた。矢倉方という部署で武器製造が行われ、勤務していた森山という藩士が桜田門外の変に参加していたという。井伊直弼の暗殺事件は銃という最新鋭の武器が使われていたと考えられる。
水戸藩では銃の他、安神車がつくられていた。鉄板で四方を囲み、空いた穴から銃撃するという戦車のようなもので、鎧を装着したウシが牽引していた。また、井伊直弼による徳川斉昭への苛烈な処分に憤慨し、水戸藩の武士だけでなく鍛冶職人、神職も桜田門外の変の襲撃犯に名を連ねていた。
井伊直弼の実弟は延岡藩の藩主を務めていたが、残された記録によると、井伊直弼は桜田門外の変で死なず、生存したという。これは徳川幕府の公式発表。江戸時代、藩主が後継者を決めないまま死去すると、その藩は御家断絶となるのがルール。彦根藩の藩主だった井伊直弼は跡継ぎを決めないまま、桜田門外の変で命を落としてしまい、藩に取り潰しの危機が浮上した。徳川幕府は藩主を殺害され、彦根藩士たちが浪人となってしまえば復讐するのは必至と考え、井伊が形式上、生きている間に後継者を決めさせることにした。結果、井伊の次男が藩主となり、取り潰しを回避した。ただ、藩士たちの怒りは収まらず、一触触発の事態に。14代将軍、徳川家茂が仲裁を図った結果、彦根藩は報復に踏み切ることはなかった。さらに徳川斉昭も病死し、藩士たちの怒りは静まった。
水戸徳川家と彦根藩はともに30万石を超えていて、内乱が起きていれば相当の被害が予想されたという。なお、彦根藩では桜田門外の変で藩主を殺されるという失態を演じた藩士たちを処断し、重傷者は流罪、軽傷者は切腹、無傷だった者は斬首に。事件から6年後、徳川斉昭の息子、慶喜が15代将軍となる。彦根藩の藩士たちは徳川家から心が離れ、戊辰戦争の際には新政府軍側についた。
「歴史探偵」の次回予告。