- 出演者
- 渡邊佐和子 佐藤二朗
今回は甲子園球場の知られざる100年の歴史に迫る。
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- 阪神甲子園球場
甲子園球場は8月1日で誕生から100年を迎える。NHKでは関連する番組を放送するなか、「歴史探偵」では甲子園の100年の歴史を振り返る。
甲子園球場は100年前と大きさはほぼ変わっていない。丸山健夫名誉教授によると、三崎省三の夢を実現したのが甲子園球場だという。かつて大阪-神戸間では阪神と阪急が熾烈な乗客獲得競争を繰り広げていたなか、阪神電気鉄道の三崎はニューヨークにあるコニーアイランドのようなレジャー施設の建設を発案した。1920年代、アメリカではメジャーリーグが人気を博し、各球団が拠点を置く都市では街が賑わいを見せていた。観客が甲子園球場の隅々まで見渡せるよう、スタンドの傾斜には緻密な計算が施され、球場の土は黒土と砂をブレンドして使用。砂状の土では打球がイレギュラーなバウンドをしてしまうが、黒土と砂をブレンドしたグランドでは球筋を予測しやすく守りやすい。そして、甲子園球場には大食堂、日焼け防止にもなる大鉄傘などがつくられた。
三崎省三はアメリカに7年半留学していた経験があり、野球を楽しみながら選手たちが体力を鍛える姿を目にした。甲子園球場を家族で楽しめるレジャー施設にするべく、プールやテニスコート、水族館なども整備した。ただ、甲子園ができた年、夏の大会に参加した学校は263。昭和9年には675校まで増えている。
甲子園歴史館には球史に残る様々な品が展示されているなか、1枚の写真に映っていたのがプレヨグラフ。ボールやランナーの動きを表現し、試合展開を解説する装置で、球場に行かずとも試合の状況をリアルタイムで知ることができた。1万人近くが集まることもあったという。1927年8月、甲子園のラジオ中継がスタート。誰が聞いても分かりやすい、丁寧な説明が求められたという。33年8月、夏の大会で愛知の中京商業と兵庫の明石中学が対戦。スコアレスのまま延長25回まで続き、中京商業がサヨナラ勝ちを収めた。アナウンサーはあえて10秒沈黙し、歓声にわく球場の興奮をそのまま伝えた。昭和2年にラジオ中継が始まったが、9年にはラジオ契約数は200万に達した。
1941年から45年は太平洋戦争の影響で夏の大会は中止を余儀なくされた。だが、昭和17年8月、野球の大会が甲子園で開かれた。公式の大会ではないため、「幻の甲子園」と呼ばれる。
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昭和17(1942年)、戦時下の国民の士気を高め、兵士として戦える体力を養う方法として甲子園で体育大会が開かれた。「幻の甲子園」はこの大会の一環で、戦場では負傷しても戦い続けねばならないといった観点から負傷しても交代を禁じられるなど独自ルールがもうけられた。99歳の宮坂眞一氏は17歳の時、「幻の甲子園」に参加した1人で、ある選手は召集令状が来たため、帰宅を余儀なくされていたという。
戦況が悪化すると、全国の部活動は廃部となったという。だが、昭和22年(1947)から甲子園での大会が復活。先輩や好球家が秘蔵していたウイニングボール、サインボールを提供してもらい、選手たちは練習に明け暮れたという。昭和28年(1953)、テレビ中継がスタート。
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昭和28年、甲子園でテレビ中継がスタートし、NHKの元ディレクターである毛利泰子さんはスタッフとして参加していた。球場に持っていけたのは3台ほどで、試合結果がわかれば及第点だったという。その後、カメラは増え、実況家の小野塚康之氏は「投手の顔、打ち取られた人など人々のドラマ、甲子園の熱量が伝わっていく」などと語った。さらに甲子園では幾多の名勝負が誕生。伝説の試合の1つとされるのが69年8月に行われた松山商業と三沢高校の一戦である。試合は引き分けの末、史上初となる決勝再試合に。最後は松山商業が優勝を果たした。松山商業のOB、扇谷志朗氏は大阪の税務署で働くなか、後輩たちの有志に感激したといい、今も税理士として活躍している。
丸山健夫名誉教授もビールを片手に巨人と阪神の試合を観戦するのが幸せだといい、中日ファンの佐藤二朗も「球春、春になると心踊ります」、「100年で野球という文化が私達の中に根付いてここまで盛んになるというのはスゴイ」などと語った。
「歴史探偵」の番組宣伝。