- 出演者
- 渡邊佐和子 佐藤二朗 鹿毛敏夫
オープニング映像。
各地の戦国大名を特集するシリーズの第1弾は大友宗麟。大分県を拠点とした大名で、今、国内外の研究者が注目しているという。
大航海時代、ポルトガルは世界各地に船を送り出した。1541年、国王の要請を受け、宣教師のフランシスコ・ザビエルはリスボンを出発し、8年に渡る旅の末、日本に到着した。古都、コインブラにある大聖堂にはザビエルと大友宗麟の面会を描いた絵画が所蔵されている。ザビエルはキリスト教の布教を許され、教会を建てるための土地も与えられた。イエズス会の宣教師の記録を紐解くと、大友宗麟を「豊後の王」、「我らの大いなる友人」と記述している。イエズス会の活動はポルトガル、スペインの後ろ盾を得て行われていて、より多くの援助を引き出すため、布教の成果を誇張してでも報告する必要があったという。すると、西洋では大友宗麟が統治する豊後への幻想が膨らみ、九州全土を治める君主と考えられていた。
イエズス会はフランシスコ・ザビエルがアジアにおいて果たした業績を後世に伝えるべく、絵を描いた。日本の大名も描くなら、ザビエル以降もキリスト教を根強く保護した大友宗麟が適任と考えられたという。
ポルトガルの国王、セバスティアン1世はイエズス会の教育を受け、大友宗麟に宛てた手紙をしたためていた。大航海時代、ポルトガル、スペインは勝手に勢力圏を定め、アジアの大部分はポルトガルのものとされた。セバスティアン1世は広大な国土を治める大友宗麟をキリシタンにするべく戦略を立案していたが、宗麟は改宗を固辞した。1562年、宗麟は出家してしまう。実は宗麟は改宗をちらせかせつつ、南蛮貿易により巨大な経済力を獲得していた。大砲の入手にも成功し、国内でも製造を開始していた。
日本刀はヨーロッパで好評を博し、大友宗麟はポルトガル国王との友好関係を深めるために短刀を贈呈していたという。一方、毛利元就が力を高めることを危惧し、大友宗麟は金と引き換えに大砲に重要な硝石を送るよう宣教師と交渉していた。戦国時代、日本にもたらされたものに火縄銃、じゃがいもなどがある。日本からポルトガルには狩野派によって描かれた屏風絵などが贈られた。
豊後はタイと交易し、鉄砲玉に使われる鉛を輸入して軍備強化を図っていたという。そんななか、島津氏はイエズス会に接近し、南蛮貿易に食い込もうと画策していた。1578年、宗麟はキリスト教の洗礼を受けることを決意。78年9月、宗麟は交渉の末に入手した大砲を配備したが、キリシタンになるという大友宗麟の決断に家臣たちは納得できず、離反する者も続出した。島津軍を前にして大友軍は敗戦し、衰退の一途を辿っていくこととなる。
大友宗麟は島津軍と戦うも、最終的に豊臣秀吉に援軍を要請する。大友が島津軍に耳川の戦いで敗れた1578年、セバスティアン1世は遠征先で敗北して行方不明に。のちにポルトガルはスペインに事実上併合され、スペイン系宣教師が日本に渡ってくる。キリシタンの数は増え、秀吉、家康は警戒感を抱いた。鹿毛敏夫氏は大友宗麟について、外交に目を向ければ、日本の戦国大名のなかで抜きん出ていたと評する。佐藤二朗は長宗我部元親を番組で取り上げてもらいたいとリクエストした。
「歴史探偵」の次回予告。