- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 河合敦 新納慎也
日本は幾度となく、巨大地震に見舞われてきた。今回、史料を紐解き、どのような被害がもたらされたのか実態に迫る。阪神・淡路大震災を体験した新納慎也が幕末の大阪を襲った地震をリサーチする。
オープニング映像。
1月、能登半島地震から1年、阪神・淡路大震災から30年を迎える。連続テレビ小説「おむすび」に出演する新納慎也は大学時代、阪神・淡路大震災を体験し、水を背負って実家まで届けに行ったことを明かした。国の想定では最大級の南海トラフ巨大地震が発生すると、最大震度7、10mを超える津波が太平洋沿岸を襲うといい、死者は32万人を超えるという。史料を紐解くと、南海トラフ地震は過去に9回起きている。
東京大学地震研究所は関東大震災を契機に創立され、様々な時代の史料を収集。過去に地震がいつ、どこでおきたか、どのくらいの規模だったのかを調べている。1854年11月4日、関東から近畿にかけて大地震に見舞われ、翌日にも起きていた。津波が大阪に押し寄せ、海を航行する大量の大船が道頓堀川まで入り込んできたという。橋は崩壊し、約100軒の建物が損壊したと考えられている。
河合敦氏によると、安政東海・南海地震の翌年、安政江戸地震が起き、さらに台風、コレラにも見舞われた。現代では地震が発生したら、川から離れるよう警告されるが、幕末の人々は小船での避難を試みたという。
1854年11月の地震から遡ること5か月前、伊賀上野地震が発生。大阪では家の倒壊をおそれ、人々は小船での避難を試みて難を逃れた。だが、同年11月5日の地震では津波が発生。犠牲者は1000人以上にのぼったという。震災の翌年、石碑が建てられたが、1707年に起きた宝永地震に関する記述がある。大阪に津波が押し寄せ、2万9000人以上が犠牲になったとされる。都会だった大阪では住民の入れ替わりが激しく、災害の記憶の伝承が難しい側面があったという。想定できたはずの津波の被害を防げなかったことへの深い後悔が石碑の文章から読み取れる。1年に1回、文章が読みやすくなるよう、石碑に墨入れが行われている。
ロケをした新納慎也は後世の人々が生き長らえて欲しいという思いから震災の経験が刻まれた石碑を目にした時に感激したという。佐藤二朗は「この年になると、後の世代に引き継ぐことの大事さ、それが責務のような気持ちになる」と語った。国土地理院では自然災害伝承碑をネット上で公開していて、全国に2000以上あるという。
太平洋戦争末期、昭和東南海・南海地震が発生。気象台職員、研究者は被災地の実態を記録にまとめ、報告書として提出したが、日本政府は公表を禁じた。当時、日本軍は敗退を重ね、戦力は疲弊。地震によって軍需工場が壊滅したといった報道は戦意低下に繋がりかねないと、政府が危惧したとされる。だが、大地震は世界中の観測所でも検知され、ニューヨーク・タイムズなどが報道したのだった。兵庫県立大学の木村教授は昭和の隠された地震の被災者のもとを尋ね、インタビューを重ねてきた。それをもとに絵画で被災の詳細を再現した。
佐藤二朗は過去に起きた地震の実態に加え、被災者たちがどう乗り越えてきたのか知るのも重要と考える。新納慎也は「阪神・淡路大震災の経験を若い世代、神戸から遠い地域の人達にも伝わっていけば」と語った。佐藤は東日本大震災の年に生まれた我が子に、慌てふためいたことなど当時のことを伝えている。新納は「連続テレビ小説 おむすび」で阪神・淡路大震災のことを描くことは能登半島地震の被災者にとっては辛いかもしれないが、「神戸はこうやって立ち直った。能登も必ず復興するから、ちょっとした光になってくれればと思ってドラマを撮っている」と語った。
エンディング映像。